こおろぎ

by しのぱ


第拾章

会社を出たのは正午過ぎだった。
昼休みでごったがえすオフィス街から、車窓の外は近郊の住宅街を抜け、雑木林や畑の間に
家並みが散見するようになってきていた。

こんな時間なので、車内には殆ど乗客は居ない。
午後の柔らかな光と車両の心地よい揺れ。
静かで人気の無い窓外の景色。



*



内科病棟。

ナースセンターで、病室を確認する。
何故か、応対した看護婦は、真司の顔を何度も確認するかのように見たのが気にかかった。
真司はドアの脇のネームプレートで確認する。

303号室 渚 馨。

病室のドアの脇に置かれた長椅子に、目付きの悪い背広姿の男が所在無げに座って真司が
歩いてくるの見ている。
男は、真司が不思議そうに見ると、視線を逸らせた。馨のところへの見舞い客だろうか?。

ドアをノックする。

部屋の中で人の動く物音がする。ドアが少し開いた。

「あ・・・」

見知った顔。目尻の皺や肌の感じはそれなりに歳をとった。だが全体的な印象は初めて会
った頃から、そう変わらない。
蒼っぽい不思議な色の髪。紅い瞳が昔と同じように真司の顔を見詰めている。
だが、その顔には表情が消し去られており、押し殺した感情の強さを却って窺わせる。
玲はあきらかに、真司をなんと呼ぼうか迷っていた。
罪の召喚。
だが真司はその感情を押し殺した。


ドアが開けられ、真司は病室内に招き入れられた。
馨は眠っているらしい。真司は小声で玲に訊ねる。

「どう?」

玲は真司が差し出した見舞い品の果物を受け取りながら、真司に目を合わせる事無く言っ
た。

「良くないわ。
衰弱が激しいの」

気丈に答えてはいるが、玲自身、限界に近づいているのが見て取れた。
何の病なのか、と問い掛けようとした時、

「真司かい」

「馨!」

振り向くと、馨がベッドの上に身体を起そうとしていた。
その姿に真司は胸を衝かれた。すっかり肉の落ちた胸が病院の浴衣からはだけて覗いてい
た。首は喉仏ばかりが目立ち、今にも折れそうだ。腕も骨の形が克明に見え、肌の色が沈
着して黒ずんでいる。
頬は落ち、顔色は既に黄色く干からびてしまったように見える。唇が白い。
玲が駆け寄って馨の起きるのを手伝う。無理をするな、と言ってやろうと思ったが玲が馨
の意志を受け入れている以上、真司には何も言えなかった。

「良く来てくれたね」

「・・・・ああ、
思ったより元気そうだね」

自分が空々しい言葉を口にするのを、他人事のように真司は感じていた。
そんな真司の心を知っているかのように、馨は微笑んでみせた。

「もっと早く連絡すれば良かったんだけどね」

ベッドは窓に並行して置かれていた。
カーテンは閉めきられていたが、その白い布地が外の光を孕んで室内を柔らかに照らして
いる。
枕元のサイドキャビネットの上には、小さな花瓶が置かれており、そこには見舞い客から
か、花が生けられていた。
真司はコートを脱いで、ベッドの脇の椅子に腰を降ろす。

「何時から?」

「一ヶ月前くらいかな。
オーストラリアは僕の身体に合わないみたいでね」

「・・・折角の栄転だったのに大変だったね」


だが、馨はその言葉には答えず、馨はしばらく真司の顔をじっと見詰めていた。

「・・・・・・・・・・・。
いろんな事を話そうと思ってたのに。
でも、みんな忘れてしまったよ」

相変わらずの韜晦なのかと、真司は苦笑してしまう、が馨の目付きに妙な違和感を感じる。

「いいよ・・・・。
また元気なときに聞かせてくれ」

「・・・・そうだね」

そう言って馨は少し辛そうに笑う。



空調が効き過ぎている。
真司は、思わずネクタイを緩めていた。

「ここは、病院だからね。暖かすぎるくらいの温度に設定されてるんだ」

と馨。

「ああ、なるほど」

そう答えながら、真司は結局上着を脱ぐ事にした。




*




馨は自分の病のことについては、何も話そうとはしなかった。
真司が何度か話の水を向けたにもかかわらず、その都度、曖昧な言葉で逃げられてしまう。

馨は、中学時代の同級生の近況をしきりに知りたがった。
最後に会ったのは馨が渡豪する直前だったので、約半年ほど前になる。
たった半年程度の間で取りたてて話すような事件は起きないものだ。
結局、馨が知っている以上に真司が知っている事は何も無かった。
馨はそれにめげるでも無く、中学生だったころの思い出話を始めてしまう。
真司は、なにか病的なものを感じる。



*



「で、馨の病気って一体何なんだ?」

病院の廊下を外来出口に向って真司は歩いていた。
玲が途中まで送ると言って付いて来ている。
真司の横を並んで歩く玲の顔は相変わらずのポーカーフェースだ。
いや、これまでのことがあるにせよ、玲の表情の無さは薄気味悪かった。
そもそも、何故、真司を見送るなどと言い出したのか。

「分からないわ」

抑揚の無い答え方。
真司は少し苛立つ。何も知らないという事があるだろうか。先程、病室で微か感じた違和
感が思い出されてくる。

「分からないって、医者は何と言ってる?」

「どこも異常が無いの」

「だってあんなに衰弱してるじゃないか」

「ええ。
だから心の病だろうって。
内科病棟から移さないのは、彼に気付かせない為なの」

とそこまで全く棒読みのように答えて、玲は始めて言い澱んだ。

「それに...」



「それに?」

「いいえ。何でもないわ」

「オーストラリアで何があったんだ?」


「別に・・・
 あるとすればその前から」


そういうと玲は立ち止まる。
真司は振り返って俯く玲の正面に立った。

「なぁ、知ってることを教えてくれ」

「なぜ?」

真司は言葉に詰まった。

なぜ?。そうする資格、そうする手立て、そうする理由の全てが疑わしい。

辛うじて言えた言葉を、真司自身が全く信じていない。

「・・・・助けに、
 ・・・・なるかもしれない」

玲は顔を上げ、真司の顔を睨み付ける。

「だって私には何も教えてくれないもの!。
いつも真司、真司って。
あの人、あたしに心の内を明かしてくれたことなんて一度も無い!。
そんなに知りたければ、自分で聞けばいいじゃない!」

玲の顔に今日始めて表情らしきものを真司は見ていた。憎しみ。

だが、それは真司が今玲に感じているものと同じなのかもしれない。
いや、真司はそのとき自分が、玲、及び玲を通してその向こうに居る人物を憎んでいるこ
とを、意識していた。

「おい、玲・・・」

真司は取り繕おうとして、不意に気力を無くす。
『俺は、そして玲は何をやっているんだ』
真司は踵を返すと、睨んでいる玲をそのままに一人出口へと歩いていった。

玲はついてはこなかった。






***






病院の玄関を出る。
車寄せを越え、柵の向こうには畑。そしてそれを区切るように小さな川(それとも疎水だ
ろうか?)が流れ、更に先を再び畑が広がっていた。
畑の尽きるところに、雑木に囲まれた、農家らしき影が数件見えた。
全てが弱々しい暮れかけた陽光をまとっている。
空気の冷たさが却って気持ち良い。浄化されたような気がする。
駅まで歩くとすれば、20分くらいは覚悟せねばならないだろう。
「タクシーで行くか」
生憎と、車寄せ脇のタクシー乗り場には一台も止まっていなかった。仕方が無いのでさび
付いたベンチに腰を降ろして待つことにした。



「よろしいですか?」

その返事も待たず灰緑色のコートを着た男が、真司の横に腰を降ろした。
薄くなった髪をバックに撫で付けている。透けて見える地肌から額にかけて脂が光ってい
る。そして疲れた肌の中で目つきの悪い眼が笑っている。
馨の病室の脇に先ほど居た男だった。
男は真司には顔を向けず、コートのポケットに手を突っ込んだまま不機嫌そうに前を向い
ていた。タクシーを待っているのだろう、と真司は思ったが、その一方でどうしても男が
真司に注意を注ぎ続けているのを感じずには居られなかった。


「お見舞いですか?」

不意に男が尋ねた。それはほんの世間話のような自然な切り出し方だったのだが、真司に
は奇妙にも不自然なものに聞こえた。
半ば戸惑いながらも真司は答える。

「ええ、友人の見舞いなんです」

「ほお、それは大変ですね。
・・・・
お差し支えなければ、どういう病気でご入院なすっているのかお教え頂けませんかね」

不躾な質問。
目だけ笑わない笑顔。

「え?。
いや、詳しいことは僕も知らんのです。
ちょっと本人にも、家族にも訊くのが躊躇われちゃいましてね」

「そうですか」

「あなたも・・・お見舞いですか?」

「いえ、違いますがね・・・、おっとタクシーきましたよ」


男があごでしゃくって指した方向から、タクシーが一台入って来た。


*


車の中で、真司が後ろを振りかえると、男は立ちあがって車の走り去るのをずっと見詰め
ていた。


第拾壱章に続く。

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