こおろぎ

by しのぱ


第拾壱章

真司が音楽を始めたきっかけは、明日香だった。
もっとも、その事を真司は知らない。





*






その日はアレクサンデル惣流が久しぶりに家に居た。

「いってきまーす」

玄関を明日香が飛び出していく。アレクサンデルはその声がいつもより一際元気の良い声
だったことには気付かなかった。
石川さんが煎れてくれたコーヒーをすすりながら新聞を読んでいる。
午前8時。大学へ行くにはもう少し時間がある。

「シーンジ!。早くしなさいよ!」

隣の家から明日香の声。アレクサンデルは苦笑する。活発に育ったのは良いことだが、明
日香が子分だと言っていた隣家の真司君にいささか同情する。小学校1年生から子分扱い
とは。

「だんなさま」
と石川さんが言った。

石川さんは50過ぎ。未亡人でアレクサンデルの妻の生前から住み込みで家政婦をしている。
穏やかで信頼できる人柄で、家にほとんど居着かないアレクサンデルは明日香の世話を含
め全面的に頼れる人物だった。

「そろそろお仕度をしませんと」

そういいながら石川さんは居間の入り口に立ってパジャマ姿のアレクサンデルを困ったよ
うに眺めていた。

「ああ、そうだったな」とアレクサンデルは頭を掻きながら言った。





*




8時20分。アレクサンデルは家を出る。
大学まではここから1時間半。まぁ間に合うだろう。この一ヶ月は日本で行われる学会へ
の出席がてら母校で特別講義を受け持つ事になっていた。貴重な研究時間を奪われるのは
困った事だったが他ならぬ母校からの招請という事であれば、断ることも難しかったのだ。
それに一ヶ月は娘の側に居てやれると思うとやはり彼も嬉しく思わないではなかった。
そうは言いながら、娘にどう接して良いのか戸惑ってもいたのだが。
あれほど理想的な父親を何度も心の中に描いていたのに、いざ娘と面と向かい合うと、自
分でも不思議なくらい照れくさかった。それに日頃の後ろめたさも手伝って、結局、ぶっ
きらぼうに応対してしまうのだった。

「おや惣流さん」と聞き覚えのある声。

初夏の朝とは言え、8時過ぎともなればすっかり蒸し暑い。ただ陽射しがまだ少し柔らかい
分、そよ風などが吹くと、心浮き立つような爽やかさだった。
後ろから追いついてきたのは隣家の主人、本間氏その人だった。

「今日は、大学の方ですか」と本間氏は如何にも興味津津という風だ。
なんとも人懐こい男だ。とアレクサンデルは思った。まぁ確かに教養のあるタイプじゃあ
ない。だが、思わず言葉をかけずにはいられなくなる、この男の明るさはアレクサンデル
には好ましいものに映じていた。

「はい。本間さんはこれから御出勤ですか」とアレクサンデルは訊ねたが、言った後で自
分の言葉が幾分皮肉にも受け取られ兼ねないことに気付いた。何かフォローすべきだろう
か、と迷っていると本間氏は言った。

「ええ、まぁ学校までは近いですしね」

と特にアレクサンデルの気遣いは無用な発言。

それから二人はアレクサンデルがバス亭に着くまで道々話しながら歩いて行った。そんな
会話の中で

「そうですか。明日香ちゃんピアノを・・・」

「ええ、まだ下手糞ですがね。
実を言うと私自身まぁほとんど聞いた事がないんですよ」

「そりゃいけない。折角だからこちらに居る間に一曲は聞いてあげなさった方が良いでし
ょう」

「そうですね」

本間氏の欠点は人懐こさという長所と裏腹に、言いにくい所をずばり言い、且つしばしば
言い過ぎていることだった。
アレクサンデルが暫く、返答をし兼ねていると本間が良いことを思い付いたと言わんばか
りの顔で言った。

「うちのシンジもピアノを習わせたらいいかもしれないですね」

「はぁ?」

「いやね、あいつの親父から何か音楽でも習わせろとしつこく言われてましてね」

アレクサンデルにとっては初耳である。そもそも真司は身寄りが無い為に本間夫妻に引き
取られたのだとばかり思っていたのだが、『しつこく言われる』ほど頻繁に会える所に父親
が居るのなら、奇妙な事をしているものだ、と思わざるを得ない。
「そうですか」と曖昧な相槌を打った。

「良い考えだと思いませんか。
いや、なんせ私は無調法なもんで、習わせようにもツテが無くて困ってたんですよ。もし
明日香嬢ちゃんが通ってらっしゃる所にご一緒させて頂けるんなら私も安心だ」

アレクサンデルは呆れた。要するにこの男は自分の肩の荷を降ろせるから喜んでいる訳だ。
まあ自分勝手とは言えるが、別に礼儀を外してる訳じゃ無い。単に思いの他子供っぽいだ
けの事だ。まぁそれは憎むべき短所でも無いだろう。
「そうですか」とアレクサンデルは苦笑しながら答えた。

「そういう事なら、先生に紹介させて頂きますよ」

「え、よろしいんですか。いや、助かりますよ」

満面に笑みを浮かべた本間の顔を見ながら、アレクサンデルは、内心、明日香のピアノの
先生に実は会ったことも無いのだとも言え無い自分の気の使い方にげんなりしていた。石
川さんにお願いするしかないのだが。

「ところで本間さん、お宅にピアノはあるんですか?」

「えっ、そうか、ピアノは買っておかにゃならんのか」

「買っておかにゃならんのかって、そんな安い買い物じゃ無いですよ」

すると本間はにやりと笑い、

「大丈夫ですって。なんせ真司の父親が真司の為ならお金は出してくれますから」

ひょっとして本間氏は、とアレクサンデルは嫌な想像をしそうになったが、所詮は他人の
事だからとそんな考えは頭から追い出してしまう。何せ考えるべき事柄は沢山あるのだか
ら。












***














その駅で電車は乗客の殆どを吐き出した。

乗客の混雑がチェロを壊しはしないかと危惧していた真司は、漸くほっとする。
ハードケースとは言え、安心できなかったのだし、一方で混んでいるにも係わらず、チェ
ロのような場所塞ぎなものを抱えている事の気兼ねもあったのだ。

梅雨も明け、暑い日だった。
車両の中は漸く冷房が効いて来ていた。
出口のすぐ横の席に真司は座った。
見回すと、もう殆どの席は空いている。

「やあ。レッスンかい?」

真司は驚く。

渚馨は、真司の答えを待たずに、隣の座席に腰を降ろした。

「ああ、良い天気だねぇ」

そう言って馨は首を後ろに反らし、空を見上げる。
真夏の太陽が照りつけていた。人も車も家並みもみな一様に強い光に白く染め上げられ、
喘いでいる。
そして空は青い。
厚い窓ガラスが全ての音を遮断し、それは残酷なシーンの無声映画を見る感覚にも似てい
た。
暫く、二人は沈黙していた。真司は馨に何と言って話をしようかと気が急いていた。
馨はバイオリンのケースを手にしている。

「馨くんもレッスンなの?」

「ああ、そうみたいだねぇ」とふざけているのか、他人事の様に馨は答える。
そして真司の方に向き直りじっと見詰める。
真司は思わず、耳まで赤くなる。
近くから見ると馨の美しさは、抗いようも無い魅力を放っている。
馨の瞳は赤い。生まれつき色素が無い為だという。真司は恐い色だと思う。だが馨に見詰
められると妙にどきどきする。


「シンジ君は、チェロを習っていて楽しいかい?」


真司は何と答えて良いか分からない。
なぜ自分がチェロを習い続けるのか、考えて見ると何も無い。
音楽は好きだ。だが、チェロを弾く事が音楽に触れる唯一の方法という訳でもない。
レッスンにしても楽しいものではない。悔しい思い、辛い事の方が多い。

「わからないよ。
そんな事考えても見なかった。
ただ何となく続けるもんだと思ってた」

「そうか。
でも嫌じゃないんだろう?」

「うん。
嫌じゃない・・・・。
でも本当に嫌なことってあんまり無いから」

「君は優しいね」
唐突な言葉。




音楽を始めたのはおじが、不意にピアノを習わせてくれたから。
チェロを弾く事になったのも、おじからの勧めだった。
おじは、本来、チェロとバイオリンの区別も出来ぬほど、音楽に縁の無い人物だったのだ
が、真司に楽器も買い与え、次いでに教えてくれる先生まで見つけ出してくれたのだ。
今考えてみると、不思議な話だった。
ただ、その時は、貰えるということに興奮して他のことは全く気にならなかった。




*




真司は、半袖から覗く馨の白い右腕を眺めていた。この腕がバイオリンの弓を操るのだ、
と思うと親みを感じる。

「そう言えば、馨くんって左顎のところ、痣が出来無いね」

真司は馨が意外そうな顔をするのが不思議だった。

「ああ、そうだね。
僕の肩が怒り肩なんで構えるのは他人よりも楽だからかな」

馨の体格は真司の撫で肩に比べると、遥かに男性的な骨格をしていた。と言っても、決し
て筋肉の付いたタイプではなく、痩せて繊細なラインだったが。
そうしてバイオリンを肩に当てたとき、首をほんの少し傾けるだけで、簡単に顎で押さえ
る事が出来た。無理の無い構え。
余計な力を入れないから、バイオリン弾き特有の右顎の痣も出来難い。
それに比べると明日香は、かなり苦労をしていると言って良い。
真司程ではないがやはり撫で肩な彼女は結局、本体に肩当てを装着して肩の低さを補わね
ばならず、そうした不安定さ故にどうしても力が入ってしまうのだ。だから長時間圧し付
けられる左顎は鬱血し、痣になってしまう。
これは明日香にとっては深刻な問題だった。もとより人一倍努力の人間なのだから、そう
した結果、人一倍痣も酷くなる。しかしそれでは折角の自慢の美貌を台無しにする。実は
小学校6年生の夏、明日香はこの問題と徹底的に取り組んだのだ。
そうした努力の結果、今では明日香も痣は殆ど目立たなくなった。
そんな明日香の苦労を見ているので先程の質問をしたくなったのだった。

「やっぱり、それって惣流さんに聞いたの?」

見透かされている。仕方が無いから正直に答える。

「え、ああ・・・・・・、
うん、そうだよ。明日香はだいぶ苦労してたから、馨君もじゃないかな、って考えたんだ」

馨はにこにこと笑いながら真司の顔を眺めている。

「そうか。
君は本当に惣流さんが好きなんだねぇ」

「ち、違うよ。明日香は、・・明日香は」

「いいよ。
無理して言わなくても」

そう言って馨は仕方が無いなとばかりに微笑む。
少し悔しいけれど、馨に微笑み掛けられるのは気持が良い。
車両の中は静かだった。明るい窓の外。涼しい車内。
降りる駅までは後4つほど駅があった。
こうしていると何となく眠くなってくる・・・・。
不意に真司の肩が重くなる。

「か、馨くん!」

馨は真司の肩に頭を預け、眠っていた。
息のかかりそうなところに、馨の長い睫があった。近くで見ると、白い頬にうっすらと血
管が透けて見える。

「・・・えーっと、馨くんてどこで降りれば良かったんだっけ・・」

聞いてみるが、答えは無い。
馨の体温が肩に心地よい。
何となく幸せな感じがして、このままでも良いかな、と真司は思っていた。


第拾弐章に続く。

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