こおろぎ

by しのぱ


第拾弐章

気が付くと目の前に、あの赤い瞳が真司の顔を覗き込んでいる。




「大丈夫?
だいぶ魘されていたみたいだけど」


真司は今、自分がどこにいるのかが分からない。
あたりは、くすんだ紅い光に満たされていた。真司を見下ろしている白い顔。頬に微かに
細かな血管が見える。
ここはどこだろう。いずれにせよさっきまでのは夢だったのだろう。記憶はもう疾うに霧
散し始めている。馨の顔のように見えたもの。そして堕ちていく、足元がくすぐったいよ
うな感覚だけが印象として残っていた。
今は堕ちていない。しっかりとしたものの上に横たわっている。
気が付くと見下ろしていた顔はなくなっている。

上半身を起すと体の節々が痛んだ。
見回してみるが、はっきりした形のあるものは何も見えない。ただぼんやりと、白っぽい
地面がそのまま遠くの方で紅い空の裾に融けていた。




*









誰もいない。








*









「誰もいないわ」









*

声のする方を振り向くと、そこには白いブラウスの上に青緑色の制服を着た少女が居た。
紅いリボンが胸元に止められている。
青灰色の髪の少女。確かにどこかで会った事がある。

「ここはどこ?」

真司は少女の方に向って歩き出した。
これは夢。歩きながら真司は気付いていた。本当のように見えながら、これは夢。本当の
事?・・・・・どうしてそう思えたのだろう。

「ここでは肉体と精神は分けられないもの」

少女が出し抜けに真司のすぐ左側に現われる。空中に50cmほど浮いたまま。ここでは
全てのものが影を持っていない。

「綾波?。それとも・・・」

「それはどちらも同じものなの」

そういってレイは真司の顔を見据える。
半袖からむき出しになった腕にもうっすらと汗をかいていた。

「僕は死んだの?」

「いいえ。あなたは生き残った。
だから再生を願ったの」

「君は?」

「わたしはどこにも居ない」












*










何時の間にか空は暗くなっていた。だが地表は明るかった。
シンジとレイは並んで足元に横たわるカヲルの体を眺めていた。

「・・・・」

「彼は?」

「彼は影」

「影?」

「彼が望んだの。
もう一度、再生のチャンスを得た時」

「・・・」

「私達はあなたの心にシンクロしているの。
だから私達もあなたに寄り添うように生きようと思った」

「・・・彼は・・
・・・・・」

「彼は望んだ通り生きたわ」

「・・・それは違う」

「違わない」

「・・・綾波だって・・・
・・・・・・結局、みんな・・」

「いいえ」


カヲルの体は、青白かった。蝋のように。
作り物の体。


「・・・・良い運命は願わなかったわ」

「?」

「ヒトは弱いの。
だから、私も、かれも、ヒトと同じように、
生きただけ」






レイの声は、空気を振動させはしなかった。
それよりも軽い媒質の中を透き通って届いてきた声。
風はなく、音もない。


「何故?」

「あなたが好きだから」

「・・・!」

「――希望なの
ヒトは互いに分かりあえるかも知れない、ということの」



どこかでカヲルの声が木霊のように聞こえてきた。

『好きだという、云葉とともにね』


以前にもどこかで同じ会話をしていた。遠い過去。あるいは未来?。

「でも・・・・・・

それは、自分勝手な思い込みなんだ。

祈りみたいなものなんだ。

・・

  ・・・・

ずっと続くはずないんだ。
                 『あなただって続けられない』

いつかは裏切られるんだ。
                  『あなただって裏切るもの』

僕を、見捨てるんだ。
                 『あなただって見捨てるのよ』


でも、僕はもう一度会いたいと思った。


そのときの気持ちは、ホントだと思うから」

                   『・・・それでいいのよ』




光が増す。

視界は白。

白。


何も見えない。

いや、全ての方向から自分の内からさえ、無限の光芒があらゆる方向へと放たれている。
時間が急速に流れる。すべては光になって光がすべてを形作っていた。


「あなたが好きだから」


「愛していた?」





















コップで冷や酒を呑む。

もとよりアルコールは強い方では無く、酒の味も碌にわから無い真司ではあったが、これ
だけは分かった。

自分の心をいたぶる為の酒。
まずい。口に後味の悪さを残しながらアルコールがただ体内に流し込まれる。内臓は、そ
の都度小さな抗議の声を上げているようだ。
酒好きの者からすれば、真司のこんな感慨は不快でしか無いだろう。
だが真司は冷や酒をそのようなものとして了解していた。
ふらりと入って一人、カウンターで黙って呑む。
そんな事をするなど、数年前までは考えられなかった。




「随分と虚無的な雰囲気で飲むんだな」

「あ、馨、随分遅かったじゃ無いか」

「すまない。
これでも遅れた理由は公用なんだから、許してくれ」

「やれやれ、お互い宮仕えは辛いねぇ」



馨はコートを脱ぐと、荷物と一緒にカウンターの下の棚に押し込み、ようやっとの所で席
に付く。

「酒やつまみは各自勝手にとる、
でいいだろ?」

と真司。

「ああ」

馨は冷や酒を注文した。
ひとしきり注文が終わると馨はさっそく切り出した。

「実はね、」

そこで言葉を切って馨は真司の顔を覗き込む。真司を試すかのような眼差し。

「結婚する事にしたんだよ」

ちりちりと胸が痛む。真司は奇妙にも、呼吸が楽では無い気がし始めている。が、漸く平
静を装うことに成功した、と思った。だが口を衝いて出たのは僅かな音声でしかない。

「・・・・誰と?・・・」


馨は答える前に一呼吸置いた。

「玲と」





真司の顔に曖昧な笑顔が凍り付く。
今日の話は、恐らくこの事だろうと覚悟は決めていた。
だが実際に直面した時の心の動きは、狼狽、としか呼び様の無いものだった。
真司は口を開く。

「・・・そうか。
おめでとう」

そう言いながらも真司は、馨に気取られまいと努めている。だが、何をだろう。

「君にはつらい仕打ちかも知れないが・・・」

馨はカウンターに向ったまま、真司に顔を合わせずに言う。眼差しはただ虚空を眺めてい
るだけだ。
真司はこれ以上答えたくなかった。馨は当然に知っているに違いない。
当然そこまで理解した上での決断なのだから、本来であれば真司は感謝して然るべきだっ
た。

「・・いいさ。
・・・
だが、式には呼ばんでくれよ。
お互いに不快になるだけだ」


「ああ、分かってる」

それからまた、一口。
後味の悪い酒。

「冷や酒は余り体に良くない、と言うね」

何気なく馨が呟く。

「ああ、まったくだ」

店内の空気は紫煙ですっかり澱んでいる。昏睡に陥る寸前のような、喧燥。

「そう言えば・・・」と馨が言った。

「君たちの方はどうなっているんだい?」

「僕は・・・・
いや僕も話しておくべき事があるんだ。
僕たちも結婚するよ」


虚勢に近いほがらかな態度。真司は、既に会社の同僚や上司に披露済みだ。だから聊か、
演技も熟練してきている。

「そうか、おめでとう!」

馨は本当に嬉しそうな表情をする。それが真司には何となく気に入らない。

「それで、何時?」

「へへ、一応6月ってことになってるね」

「おや、ジュンブライドかい」

真司は苦笑する。いや本当にそれを狙ったスケジュール設定なのだから、何と言われよう
と仕方が無いのだが。
むしろ、事の決定に至る過程での明日香との熾烈なやりとりの方が今考えると恥ずかしい。

「明日香さんだろ?」

「へっ?、何が?」

「・・・ふーん、何でもないよ・・・」

「なんだよ、気になるじゃないか」

二人は笑いあった。が、どこかよそよそしかった。真司は探るようにして馨の瞳を捕らえ
ようとするのだが、かわされてしまう。いや、真司も同様にして馨の瞳をかわしている、
のだろうか。




酔いも回ってきた。馨も頬が紅くなっている。

「実を言うとね・・・玲、子供が産めないんだ」

真司の動きが止まる。

「・・おや、知らなかったんだね」

「ああ、知ってる筈が無い・・」

「遺伝子の欠陥。
まぁ、僕も詳しいことは知らない」

「そんな筈はないだろう」

「いや知らないんだ。彼女が嫌がるんでね」


子供を宿すことの出来ない体・・・。ふと真司の脳裏に玲の裸身が、思い浮かぶ。明け方
の薄明かりの中で、血の気の無い痛々しい体。
その時感じた渇きのような感情の裏づけにその不毛な身体があるのだ、と思うと憤りにも
近い感情、と同時に自分自身への嫌悪が募ってくる。

「真司・・」

馨が心配そうに除きこむのをうるさそうに払いながら、真司は振り絞るように言った。

「それでも納得しているんだ」

「ああ・・・」

「・・・・凄いな」

声が乾いている。

「そう?」

「ああ、凄いよ。
僕には出来ない」

「何故?」

素直な問には答えは無いものだ。真司は答えるつもりの無い答えを考えていた。
『何故だろう?』
心が弱いから。それとは違うように思った。
如何に熾烈な運命だろうと真司には、余り辛いものとは感じられなかった。捨てられた者
としてそういう風に、何時の間にか思い定めて生きてきたのだから。一緒に苦しむ事も造
作無いだろう。
だが、その『造作無い』こと自体が決定的に相手を隔ててしまうだろう。どうやっても相
手の悲嘆に届くことは出来ない。
悲嘆は、『捨てられた者』には願うことすら許されない何かだという気がしていた。
もっとも、玲に対して自分にはそう思う資格すら剥奪されているな、と思い返す。所詮は
滑稽なことの一つに過ぎまい。
真司の顔に曖昧な笑みが張り付いていた。










馨は話題を変えた。

「ところで、例のプロジェクト・・」

言いかけて、真司の浮かぬ顔に馨は思わず、言葉を止めた。
重苦しい沈黙の中で、二人は何倍かのグラスを重ねていった。



「いつものこと・・・
良くあること・・・
うちだけじゃないって・・・」


真司は呟く。


「例によってインチキ」

ネットワークを使った新規の取引サービス商品だった。
競合先のD社がいち早く実現の目処を付けたとき、真司の会社は検討チームすら出来て居
なかった。
開発部署の部長・次長が左遷され急遽粗製の開発チームが発足した時、所轄の役所は、D
社の方に先取特権を認める、という裁定を下した。そもそもそうした裁定で企業間の調整
が行われることは合法ですらない。だが官民阿吽の呼吸で、これまでもずっと続けられて
きた慣習なのだ。
しかし、その結果、D社の発売後3ケ月間の間は、同様のソフトウェアでの新規サービス
のリリースは行えなくなった。
それは一方で、競合他社は後3ケ月以内にシステム開発を済ませなければならない、とい
う事をも意味した。その時から熾烈な2番手争いが始まるのだ。
その開発チームメンバーに真司は選ばれた。
開発計画の達成は最早絶望的だった。僅か3ケ月で顧客の資産を預かる事になるようなシ
ステムを開発するなど不可能以外の何物でもない。

「ちゃんと、解禁日までに完成してるから、安心してくれ」

乾いた笑い。

「この前会ったときは絶望的だと言っていたのに」

馨は抜擢された直後に会った時の事を言っている。その時は真司も上層部の、余りの杜撰
さに憤りを隠せなかった。とはいえ完全に無理であるのなら、極力可能な線で仕事を進め
ることしか出来ない、という居直りにも近い達観もあった。

「ああ、状況は依然として絶望的に近い」

「なら、なぜ?」

「パクリだからな」

そう。絶望的な状況下で、それでも3ケ月以内に終わらせる為には不正な手段以外は残さ
れていなかった。
使った手法は、この業界で良くやられている手法だ。すなわち相手が開発したときの外注
業者を、そのときのメンバーそのままそっくりに使うのだ。本来門外不出のはずの開発ド
キュメントもそっくり一式、コピーが手に入る。ソースコードも入手出来てしまう。
無論、これが発覚すれば受託した外注業者も、会社側もお縄だ。だが、それは証拠が無い
限り問題にもならない。
今真司達がやっているのは、D社とは見かけ上異なるように表面的なデザインの一部を変
更すること、及びあたかも社内で設計から作成までが実際行われたかのように設計書他の
ドキュメントを作成すること―その実態は書き写し―だった。

「来月の頭には、役員会の御歴々を招いてのデモさ」

「・・・」

「笑うぜ。
なんせ、パクって作ったシステムなのにさ、御歴々のじじいどもには反応スピードが遅く
見えちゃいけないってんで、紙芝居作ってんのさ」

「相変わらずだな」

「なんせ実際の工数は余ってるからなぁ。珍しく」

紙芝居。要はシナリオに従った操作をシュミレートするだけのアプリケーション。当然、
サーバとの通信も、サーバ側での処理も存在しない。
営業上がりの叩上げが多い役員達は気が短く、尚且つ理解力も理解しようという謙虚さも
既に無くしている。このような手合いをまともに相手にする愚を犯そうと言うものも居な
いので、デモでの紙芝居は恒例のことになっている。

「なのに・・・・楽しそうだね」

馨がぽつりと言った。
そうかもしれない。自虐的な快感。子供っぽい感情の発散には過ぎないのだが。徒労にも
近い仕事よりも、最初から上層部は(無論その中のごく一部しか決定には関与していない
のだが)、このインチキを前提に事を進めていたこと、そして同様の競合他社がいずれも、
ほぼ期日には同様のシステムを完成できるらしい事、という事は同じ手口が採用されてい
ること、そしてその裏には所管官庁の”ご指導”すらあったらしいこと、が真司に無力感
を与えていた。
問題になる筈など無い。最初から仕組まれた官民一蓮托生の茶番でしかなく、真司はその
為の雇われ人夫でしかない。不正告発など同業他社もそして御上も喜ばない。
だが本当に真司にとって衝撃であったことは、真司には、この茶番がそれほど怒るべきも
のに思えなかったことだった。『またか』と笑い飛ばしてへらへらしていられる薄気味の悪
い自分が、そんな振るまいが自然にできる自分が何時の頃からか棲み付いていた。
きっとこんなことはどこでもあるに違いない。この程度の汚れに染まらずに生きていける
筈もないだろう。
大した事ではない・・・・・そう言って一体自分は、自分の何を譲り渡したことになるの
だろうか。

   『単なる人繰り会社じゃないことが出来る筈だ』

真司は今日の昼間、ある男から言われた言葉を思い出していた。























赤黒い空と曖昧に接する紅い水平線。青い沙。
横たわっている死体は何時の間にかシンジ自身になっている。
その頭の方にカヲルが立っていて、顔を覗き込むように見下ろしている。

『カヲルくん・・・』

だが死体となったシンジには声は出ない。

「シンジくん・・」

カヲルが静かに話し始めた。もっともそれはシンジの死体にであってそこに意識の存在を
認めていない話し方だった。

「・・・君には、僕を呼ぶ君の声がどんな風だったか、
結局伝えることは出来なかった・・・」

そう言うとカヲルはシンジの傍らに腰を降ろす。

「僕は、君の呼び声によって作られた。
そう。
君が『カヲルくん』と呼ぶ何かに僕はなろうとしたんだ。
・・・・
いや、それまで『僕』というものは無かった」




ゆったりと、それでいて軽い波の音が、聞こえてくる。その音は、水面の広がりを運んで
くる。空と水の接する遥か彼方までの波音。


「僕らはずっと独りだった。
僕ら、というのも妙だね。
だってお互いに認める事はなかったのだから。
たった1つの単体として生き続けるしか無いものだったのだから」


カヲルは砂を1掴み掬い、それをゆっくりと撒いた。
その瞳は、舞い落ちる砂がどこからとも無く降り注ぐ柔らかい光に煌くのをじっと見詰め
ていた。

「僕は・・・・
あの時知ったんだ。
なぜ、リリン、
君たちが選ばれたか、を。

そう。
あの時はっきりと分かった。
僕にとって生と死は等価だったんだ・・・・
たった独りで生きる生は。
君に呼びかけられるまでは・・・

リリンと僕。
どちらかしか生き延びられないとすれば・・

あの時僕はようやく答えに辿り着いたんだよ。

シンジ君。
もし僕が生き延びたとしても、それは無だったんだ。
独り。
呼び掛け合うものの無い生。
そこにはどんな意識も要らない。

生き物は・・・最初からそうでなければならなかったんだ。
完璧な単体生物。
それは無意味な完成に過ぎない。

君が呼びかけてくれるから、僕はカヲルで居られたのにね。
だから、
僕はカヲルのままで死ななければならなかったんだ。
君が呼んでくれた僕の名前。
それは決して単なる音の連なりでは無い。
それは僕自身だったんだ」

カヲルはそこまで言うと空を見上げた。
何時の間にか赤黒い雲が開かれ、そこに月の輝く空が覗いていた。

「君は、
君たちは、
きっと余りに当たり前のことだから、
それがどんなに素晴らしいことか気が付きもしていない。
呼び掛け合う相手が居るということが。
人が人に呼び掛け合う、その不思議な綴れ織。
リリンが地に満ちて居ることは、
こんなにも不思議で楽しいこと・・・・」

やがてカヲルは立ち上がり、シンジを振り返って言う。


「じゃあ。
僕はもう行くよ。
きっとまた何時か会える。
・・・・
その時は違う名前かもしれないけれど
またお互いに呼びかけ合える・・
そんな風になれたらいいと思ってる」


カヲルは優しく微笑んでいた。








*








波の音がシンジの体を浸した。
誰も居ない。
空は曖昧に水平線と交わり、
死体は朽ちること無く、時間の経過も無く横たわっていた。


第拾参章に続く。

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