こおろぎ

by しのぱ


第拾参章

「これ。
聞きに行ってみないかい?」


そう言って岩崎は真司にチケットを手渡した。
レモン色の厚紙に花文字が書かれたチケットには「六分儀玄堂チェロリサイタル」とあっ
た。


*





レッスンが終り真司が楽器をしまい終えると必ず岩崎は、お茶の時間にする。習い始めた
最初の頃はお菓子を振る舞うだけだったが、5年生の終りくらいから、お茶を飲みながら
色々な事を語り合う時間になったのだ。
岩崎は、芸大の教授として定年退官まで努めた後、自宅で少数の気に入った弟子だけにレ
ッスンを行っていた。弟子の中には将来を嘱望される音楽大生や、音楽大学を目指す受験
生も居り、希望者は今でも後を絶たないと言う。
そんな中で、普通の小・中学生でしかも音楽の道に進もうなどと考えてもいない者が弟子
でいられるのは相当幸運なことらしかった。
もっとも真司はそれがどれほど凄いかを意識したことは殆ど無かった。単に本間のおじが
探してきた先生だから通っているに過ぎなかった。
そんな訳で、クラシック音楽シーンの現状も真司は全く知らなかった。

*

すっかり白髪になってはいたが、岩崎はスポーツ選手のようにがっしりとした体格の男だ
った。弟子の数を制限しているのは、体力の衰えから、と言うよりも自分のやりたいこと
をやる時間を確保する為のようだった。

「そいつは、僕が教えた連中の中では一番だったねぇ。
知ってるかい?」

「いいえ・・・」

「そうそう、チラシも渡しとこう。
お金は要らないよ。
出来れば真司君には一度聞いて欲しいねぇ」

そう言って岩崎はA4サイズのチラシを真司につき出した。
黒い背景に、白くハイライトの当たった部分だけが浮かび上がる形でチェロを弾く男の写
真。眼鏡をかけ、厳めしい顔つきのようだったが、そのデザインではどんな顔をしている
のかはっきりとは分からない。
裏を見ると簡単な略歴と曲目の紹介や演奏会場の地図などが書かれている。その経歴は確
かに凄そうで、若い頃に内外のコンクールの賞を総なめにしている。もっとも真司にとっ
てはその内の半分は知らないコンクールだったが。だが真司の目を惹いたのは、彼が丁度
10年ほど前から演奏活動を休止していたこと、そしてつい最近再開した演奏活動で再び注
目を集めているらしいことだった。
”・・年、自己の芸術に対する深い懐疑から一切の演奏活動を止め10年間沈黙を守ってき
た。しかし今年4月、ニューヨークでの衝撃的なリサイタルでカムバックして移行、精力
的に演奏活動を展開、現在もっとも注目を集めているチェリストの一人である”
自己への懐疑と10年間の沈黙と復活。
それは真司にとって、一種の誠実さの現われのように思えた。本来全く知らないはずの、
その演奏家を一目見てみたい、そう思わせるだけのものがあった。

「あ、そうだ。チケットは2枚渡しておくから、ガールフレンドとでも行っておいで」

と岩崎はにやにやしながら言った。

「え、いや、ありがとうございます。でもガールフレンドなんて・・・」

「おや、いないのぉ。
駄目だよ。もてなきゃあ」

岩崎は真司をからかって楽しんでいるのだ。

「何ですか、もてなきゃって。
僕がどうこうできることじゃないですよぉ」

「あ、そう。
じゃ問答無用。
とにかく2枚渡しとくからね。
誰か仲の良い子と必ず行く事!。
先生はオクテの子は嫌いだよ!」

「そんなぁ・・」

岩崎は、悪戯好きの子供がそのまま大人になったような性格だ。チェリストの典型的タイ
プである。そしてこう言うあしらいには真司も慣れっこになっている筈なのだが、結局は
相変わらず手玉に取られているのは真司の方だった。




*




誰と行くか。

真司はもう一枚は放って置いて後で先生には適当に答えておけば良い、とは考え付きもし
ない。
とにかく誰かを誘って行くと言う事は絶対なのだ、と決めてかかっている。
そして大して迷いもせず、真司は明日香を誘うことに決めた。
いや、最初からそれは決定済みだったのだが、真司が悩んだのはどうやって話しを持ち掛
けるか、というただ一点に絞られていた。

*

「ふーん。あらこの人・・・」

明日香は真司の手からひったくるようにチラシを掴むなり言った。

「え、明日香、知ってるのこの人」

チラシの写真に見入っていた明日香は顔を挙げると、真司の顔をまじまじと見詰めた。

「あんた、バカぁ?。
チェロやっててこんな有名人知らないなんて」

「そ、そう?。
そんなに、かな。ははは。
知らなかったよ」

もの知らずを明日香に詰られるのはいつもの事ながら、さすがに『チェロをやってて』と
までも言われると、真司としても情けなかった。

「明日香って良く知ってるねぇ。ははは」

お追従めいた言葉を吐くと、明日香はいきなり真司のほほを抓った。

「あ、ひてててっ」

「あんたねぇ、どうしてそう、いつもへらへらすんのよ!」

「ひょっとあふか、やめへよ!」

「やだ!。
止めない」

「ねー、あふか〜」

思い切り情けない構図だ、と思ったが明日香に構ってもらえて嬉しい、くすぐったい感覚
もあった。
見れば明日香の瞳にも、やわらかなものが感じられる。
そう、抱きしめる代わりに頬を抓ったのだとでも言えそうな表情。
その時、明日香が急に真顔に戻り、真司の頬から手を放した。
少し頬が赤らんでそれから真司に背を向ける。
真司もようやく現在の状況を把握する。
昼休みの教室。窓際の真司の席近くに二人は立っていた。
柊二と健亮が机の上で頬杖をついて、半ば呆れながらもにやにやしてこちらを見ている。
いや、教室中のあちこちから視線は二人に集まっていたのだ。
急に真司も頬が火照ってくる。

「いいわよ。
今度の土曜日、付き合うから」

明日香は真司に背を向けたまま言った。
『馨君?』
明日香の返答に喜びながらも、真司はその時、そっと教室を出ていった馨の後姿に心騒ぐ
ものを感じていた。



*



『父さん!!』

ステージに現われたのは、父だった。数年振りとは言え、見間違えようがない。

*

岩崎の気遣いなのか、あるいは有力者の特権なのか、真司の座席は中央前列から5番目く
らいの場所にあった。奏者の手許や顔がはっきり見え、かつ音を聞くには近すぎず。

「特等席ね!」

今日の明日香は最初からテンションが高い。用意された席が良かったので、道中の真司の
煮え切らなさへの鬱憤も消し飛んでいた。明日香にとっては今日は飽くまでも高名なチェ
リストの非常に話題を集めているリサイタルがメインのデート、でしかないのだ。
少し上気した明日香の顔を見るのも悪くない。いや、開演までの間、明日香がパンフレッ
トに書かれている内容を所々、教えてくれるのを聞きながら(そのくせ真司には見せてく
れようとはしないのだが)、なぜ、こんなに自分が気分が良いのか真司は訝った。考えてみ
れば、学校と家、そして近辺の遊び場と、レッスンに通う道以外の場所で自由に行動する
のはこれが始めてと言ってよかった。
気持ちに余裕があるのか今は明日香の目まぐるしく変わる感情にも落ち着いて接すること
が出来た。

*

あの時の見下ろす父の顔をはっきりと真司は覚えている。
眼鏡の奥の瞳は真司を見ては居た。だが、それは父がいつも真司に向ける眼差しでは無か
ったのは確かだ。怒りでも無く憎しみでも無く嘆きでも無く。もしそれがある感情の表わ
れだとすれば、当時の真司が知らない感情が、そこには現われていた。真司は困惑した。
そろそろそれが恐れに変わり始めたとき、父は唐突に踵を返した。

『おまえはここに残れ』

そういうと父は立ち去った。追いかけようとする真司を本間のおじが引き止める。夏の陽
射しが白く散乱したアスファルトの道を、それが雑木林の中へ折れ曲がって消えて行く先
へ、父が歩み去るのを真司は泣きながら見ていた。涙に歪んだその映像は脳裏にしっかり
と焼き付いている。

『捨てられた・・・もうお父さんは僕をいらないんだ』

そう思ったのはそれから数日経ってからの事だった。それがあの不可解な別れへの了解の
付け方だった。





*





その父が今ステージに立っている。
父がそもそも音楽家であることを真司は全く知らなかった。本間家に来るまでの生活につ
いてのおぼろげな記憶はある。
確かに真司の家にはピアノがあったように思う。大きな家だったのを記憶している。そし
てその各々の部屋の断片的な記憶。
だがその記憶の中で両親が楽器を演奏してた記憶は無い。
父は偶にしか家に居なかった。そして帰ってくると、真司をもみくちゃにするかのように
抱きしめてくれた。髭は痛かったが、その頬ずりを真司は嫌いでは無かった。
だから、ここに今父が居ることは予想していなかった。
が、父が演奏家、それもチェリストであるということで幾つかの疑問が氷解したのも確か
だ。なぜ突然、真司がチェロを習うことになったのか、そして何故音楽に縁の無かった本
間のおじがチェロの先生を決めることが出来たのか。
それが父の意志であるとは真司には信じられなかったが、一方でチェリスト、六分儀玄堂
の息子であるからこその事であるのは確かであると思われた。
胸が痛い。
何故かは分からないけれど、何か急き立てられるような不快な感覚が真司を苛む。真司は、
はっきりと考えをまとめる事が出来ない。
幸いにしてフロアは既に暗くなっており、しかもただ今はシートに座っているだけで良か
ったので、隣の明日香に狼狽振りを見せないよう取り繕うのも造作無い事だった。暗闇の
中でただ自分の心とステージの上を見詰めているだけ。
そして演奏が始まった。

*

会場前の広場の中央に、御影石の段が組まれライトアップされた噴水がしぶきを上げてい
た。
真司はその石段の一つにぐったりとなって座っていた。御影石の冷たさが、ほてった心と
体に心地よい。

「真司・・・大丈夫?」

明日香は真司の横に腰を降ろして、覗き込む。
お下げに結った髪が噴水のライトに煌いて揺れているのを真司はぼんやりと見詰めていた。
何か答えなくては。明日香に心配させてはいけない。

「大丈夫だよ。ちょっと興奮しただけ・・・・」

明日香はため息をつく。

「そう。
しょうがないわねぇ。
やっぱりチェロやってる人から見ると興奮しちゃうくらい凄かったのかなぁ」

明日香が全く真司の動揺に気がつかないかのように言葉を継いだのを、真司はほっとして
聞いて居た。

「うん、やっぱり凄いよね。
弓使いやポジションの取り方から、細かな演奏のニュアンスまで、
どれをとっても凄い・・・」

喋り続けながら声が詰まり勝ちになるのに気がつき、真司は言葉を続けられなかった。
腰を下ろす二人のそばを家路に急ぐ聴衆たちが通り過ぎていく。
不意に言葉の途切れた真司を不審に思った明日香は真司の顔を見て驚いた。
泣いている。

「なによ。泣くほどのことなの?」

自分でもどうしようもない涙を、真司は慌てて誤魔化そうとする。

「え?。
ああ、えへへへ」

確かに明日香の耳にも素晴らしい演奏だったように思う。明日香も良く知っているバッハ
の無伴奏チェロ組曲だけを演奏した2時間。
単調になりがちな演奏会の曲目構成ながら、決して退屈させない何かがあった。
真司から見れば、明日香は音楽センスが無い、という事になるのだが、伊達にピアノ、ヴ
ァイオリンを習っていた訳では無い。ただ真司ほどの感受性は無いというだけに過ぎない。
むしろ一般的な水準に比べれば、良い耳をしていると言って良いだろう。
それだけに真司の耳に日頃から明日香は一目置いてはいたのだが、それにしても真司の反
応は常軌を逸しているように思えた。
そして、その動揺の本当の理由を真司が明日香に話す気は無いことも明日香には、はっき
りと分かった。
表面的には柔弱な真司だが芯は非常に頑固なのを明日香は良く知っていた。いつもは強気
に接しては居るけれども、その真司の心の聖域を侵さぬように何時の頃からか明日香は気
を遣うようになっている。この気遣いを余人には絶対に出来ないだろう、と自負もしてい
たのだが、今は真司をそこまで分かっていることが、却って彼と自分との間の隔てを意識
させるという皮肉な結果になっていた。
しばらく真司は自分の感情と戦っていた。何事も無い。ただ並外れた演奏家の演奏に接し
たに過ぎない、そう装おうとしていた。
だから明日香のそんな想いも真司には全く気付かなかった。

演奏−そうあれを演奏と呼ぶのなら今まで聞いた事のある演奏など、単に糸の張られた木
の箱に、馬の尻尾の毛で出来た弓で戯れかかっているに過ぎない。
言葉とは異質の領域に、そもそも音楽芸術は、その本源を持っているのだ、という当たり
前のことも、言語の呼び出す表象の力ゆえに簡単に忘れ去られてしまうものだ。曰く「繊
細な」とか「清潔感のある」などという形容詞で評論らしき言説が可能であるという誤解
ほど音楽を人から遠ざける物はないだろう。
演奏会の最初の曲を玄堂は、第2番の組曲から始めた。暗い、かと言って決してドラマチ
ックなところの無いこの曲を、彼は恐らく凡百の評論家ならば、「即物的」と呼びかねない
ニュアンスで奏でた。だが、それは力に満ち溢れていた。
八分音符は、それは八分音符の、四分音符は四分音符の、そして十六分音符は十六分音符
の力価を持ちつつも、それは各々の音の連なりの位置の中でさらに微妙な強度の相違を、
しかも多重に渡る流れの中で受け取り、それは耳と記憶の双方から聴くものの心を音で満
たした。
それは確かに音でしか無いもの。
心は音で満ち、言葉も、そして見慣れた感情までも消失した。
音楽の中で意識だけが目覚めるのだ。
真司は自分の音楽的感性とその経験が全く解体されたかのような、喪失感と同時に、痛い
までに悦びに満ちた解放感を感じていた。いや、それは碇真司という個の完全な消失にほ
んの一歩のところまで到達していた。
重苦しくいつも圧し掛かっている、あの自分である事の呪縛が、そこには全く無かった。
それは新しい認識を産んだ。そう、その重圧は言葉とイメージの領域にのみ巣くう何かで
しかない。それらは、人間の意識にとって必ずしも本質的では無い、その領域を取り去っ
てしまえば、跡形も無かった。天使の意識というものがもしあるのならば、それは正しく
こうしたものであるに違いない。
聴くという事、聴かれる音楽というもの、聴いている碇真司という現象、それらは全て消
失した。
演奏が終わり、暫くの空白な時間が過ぎ、再び演奏が始まり・・・そうして演奏会が終わ
ったとき、苦痛に満ちた覚醒がやってきたのだ。
それは二重の失楽園の痛み。彼を見捨てた者の垣間見せてくれた世界は、真司がどれほど
「打ち棄てられた」存在であるかを鋭い痛みを伴って直視させることになった。
父の創った音の世界は、確かに不確かでしか無い親子という関係を通じて、真司には無縁
ではないもの、ではあったが、しかし何の慰めにもなりはしない。
そこから打ち棄てられたものである、という自分への直面しか残されていないとすれば。
余りにも救いの無い認識と、忘れることの出来無い、あの至福の時間とが真司の心を引き
裂いていた。
やがて憎しみが、玄堂という男への矮小な憎しみだけが真司には把持し得るものとして残
された。

*

「真司くんじゃないか」

真司と明日香の前に何時の間にか馨が立っていた。
傍らには、一人の少女が居た。
馨と同じく、髪の青い少女。瞳の色は暗くて定かではなかったけれど、確かに紅い様に思
われた。

「馨くん・・・」

馨は真司の顔の涙のあとに全く気がつかないかのように言う。

「やあ。
凄い演奏だったね。
感動したよ・・・」

真司の胸に痛みを感じる。それは自分の心が馨には全く分かっていない事からなのか、そ
れとも馨の傍らにいる少女の存在によるものなのか分からなかった。
明日香が怪訝そうに傍らの少女を見ているのに気付くと馨は、その少女の方を振り返り言
った。

「そうだ、紹介しておこう」

そして真司に向って、傍らの少女を示しながら言った。

「真司くん、こちらは綾波玲さん。
僕が習っているヴァイオリンの先生の御弟子さんでね。
学校は僕らとは違うんだけど、いつもレッスンで会うんだ」

それから馨は真司達を指し示して玲に言った。

「こちら僕の中学の同級生で、碇真司くんに、惣流明日香さん。
同じ音楽部の部員なんだ」

明日香は立ち上がると玲の前に歩みより、右手を差し出した。

「よろしく」

「・・・・よろしく」

玲は殆ど表情を変えること無く言った。
明日香は差し出した右手が顧みられないので、聊か動揺していた。かといって怒り出すの
も大人げ無いと思ったのか、唐突に手を引っ込める。

「お二人ともデートかい?」

とからかうような調子で馨が言う。

「ちょっとぉ、あんたこそ自分のこと棚上げにしないでよ」

先程の玲のし返しといわんばかりに、明日香が食ってかかる。

「僕達かい?。
そう言えばそうだな」

と馨。まるで他人事のようだ。
馨が明日香とやりあっている間に真司は何とか自分を取り繕った。

「はじめまして。
碇真司です」

そういって青い髪の少女に挨拶する。
笑おうとするのだが、自分の意に反して泣きたいような衝動にかられる。
真司は自分の顔が強張るのを嫌悪した。何となく馨には見られたくないと思っていた。
明日香は自分をそっちのけで玲に挨拶する真司に不満そうだが、初対面の人間の前でさす
がに真司を咎めるのは堪えた。

玲は、真司の顔をしばらく見詰めていた。食い入るように、といっても良いその表情に明
日香は微かに不快感を覚えていた。
真司もさすがに怪訝に思ったが、いつもの如く曖昧な微笑みを玲に返す。

すると玲は我に返ったのか慌てて言う。

「ご、ごめんなさい・・・あたしぼーっとしてて。
こちらこそよろしく」

それまで無表情だった玲が真司を前に突然感情を表したのに明日香は驚く。
恥じらいの表情。
そんな玲と真司を、馨は興味深そうに見詰めて居た。

だが、真司は玲をじっと見据えながらも、玲を見ていたわけではなかった。



第拾四章に続く。

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