こおろぎ

by しのぱ


第拾四章


眠れない夜は、停止した時間の檻のよう。

そこからは何物も流れ出ない。そこには何物も流れ込みはしない。



布団の上に身を起こした自分の体の心臓は止まっているのかもしれない。
真司は、夜気が布団に染入るようにして、自分の体もこのまま座っている
うちに、吸い込まれていくのだ、と半ば祈るような気持ちで考えていた。
そして再び目覚めると、そこには母さんが居て・・・。

『仕方ないだろ』
『何が!。
 何も仕方ないことないじゃない!。
 断ってりゃ良かったのよ』

階下から本間おじ夫婦の声が聞こえてくる。
時計の音。
自由にしてはいけない真司の子供部屋。
そこに眠れずに起き上がっているこどもは明かりを点けることも、もう一度
眠りに就くことも出来ない。
ここは止まった時空。
そして子供を打ち据える鞭。

『あんたは仕事だ、仕事だって言うけど・・・
  世話すんのはあたしなんだからね』
『そりゃそうだろうよ。別に俺は逆にしてもいいんだ。
  どうせ役所の仕事じゃ大した稼ぎじゃないしな。
  代りに稼いでみろってんだ』
『開き直る気?。
  あんたのいい格好しぃの尻拭いになんであたしが苦労しなくちゃなんないのよ』
『何を言ってるんだ、このバカ。
  苦労だぁ?。冗談じゃねぇ。
  いい子じゃないか、え?、シンちゃんはよ。
  普通の子供にくらべりゃよっぽど楽だ』
『ふん、どうだか。
  猫かぶってんだよ』
『いやか?』
『・・・・』
『それにな・・・
  いい金になるんだぜ』
『金?』
『そうさ。子供にかかった費用は全部お持ち下さるそうだぜ。
  こっちから請求すりゃ幾らでもな』
『・・・・そりゃわるくはないわね』




真司に、二人の会話が理解できた訳ではない。
ただその声、語気から何となく自分が厄介ものなのだ、という事は見当が付いた。

イラナイモノ。
ステラレタモノ。

にも関わらず自分はここにこうしており、しかもこうして居なければならない
という事(何故?)。
真司は布団にもぐり込む。
耳を押さえ目を閉じ、そうしてひたすら布団の外には本当は違う世界があるのだ、
と思い浮かべていた。



『おはよう、真司君』
『おはよう、シンちゃん』


にこやかに笑みを浮かべたおじとおばの顔に真司は戸惑う。
真司には理解できない。昨日聞こえた声は何だったんだろうか。
夢だったのか、と思った瞬間、おじとおばの目が急に空ろな洞のように見えた。
真司は、その時悲鳴を飲み込んだのかもしれない。






****




見下ろす父の顔。

確かに、顔を縁取る髭は嘗て幼い真司が触るのを好んだ父の懐かしい髭だった。
しかし、眼鏡の奥にある目は、真司を知る人の目ではなかった。
微笑んでいるかのような口元は、それでいて冷たく不吉なものを感じさせた。

『何か用か?』

冷たい言葉。答えは待っていない。

単に眼前にあるヒトに対して、誰何した程度のものに過ぎまい。
彼の目の前には彼の息子が対峙しているわけではない。
にも関わらず、真司は何時も一縷の望みを抱いて問い掛けるのだ。

『父さん・・・?』

しかし父の表情には変化は見られない。


『私は忙しい』


それから父は背を向ける。
闇の中へ歩み去る背が翳んで見える。






*****





『嫌なら、帰れ』

それは切迫した状況のようだった。
蔑むような声の調子は、真司の心を傷つける以上に憤りを引き起こす。
だが、その憤りを現す事がどうしても出来ない。
その溢れ出ようとしながら堰きとめられた感情の代りのように汗が
噴出してくるのが分かる。

やはり、その時も父は超然として真司を見下ろしている。
だが彼が見ているのは『息子』では無い、と感じられる。
対面しながら、そして真司を真司と知りながらも、なお父は、
『お前なぞ知らぬ』と突き放す。
何故かは分からない。
だが状況は切迫しているのだと、微かな記憶が真司に告げる。
決断よりも、父との対峙そのものが真司には最早絶望的に感じられる。
どの行動の一瞬先にも望みは絶たれている。





*****



夢に見る父は、いつもそんな風だった。
不思議なことに、いつも同じ状況、同じ表情、同じ台詞。
それが歳と共に次第に鮮明に、隠されていた記憶が積み重なるように状況
は克明になって来たのだ。繰り返し見せ付けられる父の拒絶。

そして母の夢を見ることは滅多にない。
いや、醒めて、覚えていない夢の感触の中に、忘れてしまった夢が母の夢
であったことを知るのが常だった。
父の拒絶の次第に克明になる姿と、そして一度もそれと見た記憶のない、
幸せであろう忘れ去られた母の夢と。
本間の家で、真司と両親とを繋ぐものはそんなものだけでしかなかった。





*****





いつか、そんなことを馨に話してみたことがあった。
それは何時だったのだろうか。

馨の表情は少し曇った。
それから白く細い指が真司の頬に軽く振触れる。
それがどういう意味だったのか、真司には分からなかった。

『忘れてしまった事だけを憶えているなんてね・・・・』
少しの笑いは、真司の心を少しだけ軽くする。






記憶・・・・。


憶え、
忘れ去られ、
想起されるもの・・・・?。

あるいは、忘却された彼方から、責め立てるあの見ず知らずの記憶たち。









*****







そして、いつの頃からか、何度か見た夢の記憶。

人を殺す夢。
紫色の巨人に乗った真司の手に握られた人。


恐怖に駆られながら、しかし尚もその相手に恋着している、
それでいて魅入られたかのように、致命的な所作にとりかかる自分。
奇妙に切迫していながら、どこか余所余所しい殺人の瞬間。
そしてその直後の動物的とも言える安堵感。


長いこと、それが馨なのだ、と気が付かなかった。
気が付いたときには、それが酷く馨と自分の関係に似つかわしく思ったものだ。






*****





この街の夏の過ごし難さには定評があった。

夜も疾うに更け、開け放たれた窓から、正面の山の稜線が次第に
はっきりと浮かび上がってくるのが見える。その方角が丁度、
東になる。稜線の向こうの空から徐々に光が増してきている。

熱帯夜だった。

馨の下宿で飲み始めたのが昨日の午後9時。それから既に7時間ほど
が経過している。
明日は講義も無い。

暑さに堪り兼ねた馨は上半身裸になり首にタオルを架けていた。
真司は襟元が汗でぐっしょりと濡れてきてるにも係わらず、Tシャ
ツを脱ごうとはしなかった。
既に、ウィスキーのボトルを1本空け、1升瓶の方も2本目が尽きよ
うとしていた。
馨はアルコールに強い。しかも酔って乱れることはまず無かった。
真司はといえば、然程は強くはないのだが、自分のペースを守って
飲めば馨につき会うことも可能だった。



二人は壁にもたれかかって並んで座っていた。
窓から夜気が部屋に侵入してくる。
遠く、大通りを通る車の音が聞こえてくる。

「傷。
 結局、それは傷としか言い様の無いものを残すから意味があるのさ」

と馨は言った。

話の発端は、演奏するということの意味。
問うこと自体既に意味を失しているというのに。

真司は答えなかった。
真司は、初めて父の演奏を聴いた日のことを思い返していた。

「なぜ、傷、なのかな」

半ば、自分の思考に浸ったままの真司の問は、馨に向けられたものでは
無かったし、もとより答えを求めての事ではなかった。

「記憶に値するから。
 いや記憶だからかな」

馨も問に答えるようで、そうでもないような答えをする。

「どうにもならないもの・・・
 癒しようの無い痕跡・・・裂け目。
 痛みをもって迫って止まないもの・・・
 いつまでも止まり続け、決して何かに解消されないもの」

馨は、独り言のように言葉を続けた。

「全て意味ある出来事とは傷のこと、という訳?」

では、あの記憶とも呼べぬ「体験」はどうなるのか。
傷のみが先行して存在すること。

「出来事以前の傷・・・・」

と真司は口に出して言って見る。

「そもそも覚えたことすらないのに・・・・
 ・・・・忘れるな・・・とでも脅迫するような?」

馨の言葉に真司はどきっとする。知っているのか?。
思わず、真司は馨の顔を覗き込むが、そこには謎めいた薄笑いしかない。

「それは、凄いテーマだねぇ。
 まるで原罪のことのようだ」

馨はからかうように言う。

「だとしたら・・・」

と、その先は真司にはなにも考えられない。
何と言おうと、そこにそれはある。

「忘れるな・・・・傷の意味として言葉に出来るのはそれだけだからね」

馨は、そのまま引き取って言う。

「忘れるな・・・か」

全てはそう言われるに値するな、と真司は自嘲気味に思っていた。
ここにこうして辿り着いていること自体が、まさしくそのことを物語っている。

「・・・玲のことを考えているのかい?」

馨は無造作に残酷な一言を吐く。
白いうなじ。不思議な色の髪の生え際の艶かしさ。
冷たく、けれど内側に熱を持ったような白い肌。体臭の無い謎めいた裸身。
真司はふっと笑う。

「残念ながら・・・今の今まで気が付かなかったよ」

その瞬間微かな痛みが胸を翳める。
思い出したもの自身が再び傷を始めるのだ。想起する都度、それは愚行の再演
でしかなく・・・。

「いや。
 忘れた訳じゃないさ。
 確かにね。
 忘れるな・・・・か」

忘れている訳ではない。それは今の真司の、感覚の奥底を構成するものとなっ
ていたからだ。
不断に脅かすもの。

馨の表情は変わらなかった。

「だが、それが何かを人は言おうとする。
 言い当てる事でそれは忘却の淵に沈むことに人は気が付かない」

馨は何かを読み上げるような口調で言った。
その口調に不穏なものを感じて真司は先を促す。

「だから?」

しばらく馨は真司の顔をじっと見詰めていた。
無表情な顔。その表情を真司はどこかで見たように思った。
・・・ヒトデハナイモノ・・・・・
急に馨の表情が緩む。

「だから、は無し、だよ」

と馨は笑った。

「いや、はぐらかす訳じゃないけどね。
  僕が配慮が足りなかった」

そう言いながらも馨の目は、無機質な光を湛えたままだ。

「いいよ。別に」

真司は馨の瞳を見詰めつづけている。
どこかで新聞配達のバイクが通りすぎるのが聞こえた。
やがて、馨の瞳が、いつもの表情を取り戻す。
漸く真司は、ほっとする。

「・・・・でもどう考えても、これって酔っ払いの会話だよね」

切り上げるつもりで真司は言った。もとより酔っ払いの会話なぞで
ある訳が無い。

「僕はそれを一度でも否定したかい」

そう言って馨はにやりと笑う。
真司も笑った。疲れから、否応無くそれはけだるいものになったけ
れど、不思議とすっきりした。






不意に馨は真司の肩に腕をまわした。そしてそっと真司の唇を啄ばむ。
真司は拒まない。とは言え積極的に応じはしない。
あの時から、ここまでが真司の許した範囲。これが不文律となっていた。
こうして出来上がった妥協の形を二人はずっと続けていた。

「相変わらず・・・・・避けるんだね」

「馨・・・それはもう片付いた話だと・・」

「惣流さんとは寝るんだろ」

畳み掛けるような問い。馨の裸の腕は真司の肩を掴んだままだ。

「・・・・・・ああ、そうだよ」と吐き棄てるように真司は言った。

「何故?。何故彼女ならいいんだい?」

馨の腕に力が入る。
真司は、その腕を振り解こうとするが、余り本気でそうしているとも見え
ない。むしろ馨がこんな問いかけをしないのなら、そのままでいても良か
ったのだ。

「明日香は・・・」

「君は彼女の肉体が欲しい。
 だけど彼女を愛しているのかい?」

「・・・・それは・・」

真司は言い澱む。そうであるなら、そうであると素直に言葉が出るようなら、
どれ程に楽な事か。
馨は真司の頭をやさしく掻き抱いた。

「すまなかったね。
 別に困らせるつもりは無いんだ」

だがその言葉とは裏腹に、毒はしっかりと真司の心の奥にまで届いている。
そして毒矢を放ったその馨の顔を見たとき、真司はあの夢で自分が殺した相手
が馨であったことを知った。





既に陽は高く昇り、だらだら続くアスファルトの坂道を焼き付けていた。
夏の午前の凶悪な光の中で、人々は不断に続く活動を始めていた。
坂道を下る真司だけがそうした流れから浮き出ている。

自分の部屋のドアを開ける。
窓を閉めて行ったので、熱気が篭っている事を覚悟していたのだが、それほど
でもない事に気付く。と見れば玄関には彼女の靴。

「明日香?」

椅子に座り床をぼんやり眺めていた明日香は、顔をあげようともしない。
ピンクのタンクトップ、デニムのショートパンツという聊か挑発的な服装も今は、
疲れ切って見える。
窓は開けられて網戸になっていた。

「来てたんだ・・・・」

急に沸き起こる憐憫の気持ちが真司には鬱陶しく感じられる。
明日香はゆっくりと立ちあがると真司の方に顔を向ける。
諦めと哀しみと、惨めさの入り混じった顔。赤く泣きはらしたかのような目。
真司を詰るでもなく、だたその視線は力無く真司の顔にすがりつく。
  『君は彼女の肉体が欲しい。
  だけど彼女を愛しているのかい?』
馨の言葉が浮かぶ。

「ああ」

と真司は声に出して答える。その吐息が自分の喉を焼くような感覚を味わいながら。

真司は明日香を抱き寄せた。






*****






既に正午を過ぎている。
暑い日。行為の後の汗が明るすぎる陽の下では、薄汚れて感じられる。

「ごめん、あたし帰るね」

ベッドから身を起こすと明日香は真司の顔を見ずに、そそくさと衣服を身に纏った。
その姿を真司は黙って見詰めていた。

目が翳むのは、きっとこの暑さのせいだ。
明日香がドアを閉めた後、急に蝉の鳴き声が強くなった。


真司はいぶかしんでいた。
何故、殺したのが明日香でなく、馨なのか、と。





********




陽に肌を焼かれながら、だらだら坂をうなされたように下って行く。
白いアスファルトの道の上に真上からの光が僅かな影を落とす。
惨めだった。
朝まで待っていたのも、抱かれたのも全て真司に後ろめたい気持ちを
起こさせる為に過ぎない。汗でべとべとの体のまま、投げやりな行為
が益々、行為自体への嫌悪を募らせる。
それが真司との行為だというのに。
そして明日香の気持ちの切実さほどには真司には理解できないという
事も分かっていた筈。
もとより明日香は、行為に嫌悪感を払拭できずにいる。
それなのに、なお彼に行為を誘うという自虐的な行動から逃れること
が出来ないのだ。
『なんで、あたしこんなことしてるのかなぁ』
と呟いて見る。

道行く人々は明日香に奇異なものを見るような視線を投げた。
涙はアスファルトに落ち、強い日差しに、乾いた。




第拾伍章に続く。


二週間ほど、休憩・・・のつもりがこんなに間が空いてしまいました。
すみません、さぼり癖が付き易いもんで・・・・・。

取り敢えず後半戦突入です(ホントか(・・;))。
しっかし、な〜んか嫌ぁな話だな、これ(苦笑)。


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