こおろぎ

by しのぱ


第拾伍章


それは、真司が入部した一週間後の事だった。

意外な人物。





「何見てんのよ!」

明日香は少し顔を赤らめている。が、顔を伏せることも無く、真司を
しっかり見据えて立っていた。

その日、真司は週番の仕事のため、部室に来るのが遅かった。
部室に入ると、明日香が部長と何やら話をしているところだった。
手にはしっかりとバイオリンケース。

「明日香、どうしたの!?」

とは言いつつも、その状況からすれば、入部希望であろう事は察しが
ついた。案の定、明日香からは罵声が返された。

「見りゃわかるでしょ。
 まさか掃除でもしに来たと言う訳ぇ!?」

「ごめん、別にそういうつもりじゃあ・・・」

「黙れ!。シンジのくだらない言い訳聞きに来たわけじゃない!」

それから胸をはり、真司を見下ろすようにして言った。
「あたしは、音楽がもっと楽しみたいと思ったから入部しただけ。
 あんたなんかとは何の関係も無いんだからネ!」

真司は、明日香の狼狽ぶりがおかしくてならなかった。だが、それを
おくびにも出さずに言った。

「じゃあ、とにかく良かったね、だね」

明日香はその言葉に頬を赤らめた。

「やあ、惣流さんも入部かい?。
 歓迎するよ」

背後からかかった声に明日香は表情を強張らせる。

「あんたさえ、居なけりゃ・・・」

明日香は振りかえらず小声で言った。

「良かったじゃないか、真司君。
 これで君も安心だね」

馨は、部室に入ると、ケースから楽器を出し始めながら言った。

「惣流さん、真司君はねぇ、困った人なんだよ」

「馨君!。
 何を言うんだよ」

真司が顔色を変えたので、明日香は矛先を真司に向けた。

「へーぇ。真司、そんなに慌てて、何があるのかなぁ?」

「なんでもないよ!。
 馨君!、止めてよね、つまんないこと言うの」

後半は馨に向けていった言葉だった。

「そうだねぇ。どうしようかな」

馨は、弓の張り具合を確かめながら楽しそうに言う。

「馨くん」

そう声をかけつつ真司は最早覚悟を決めていた。

「ふふふふ。
 いや、ね。
 今朝、君は真司君を誘わずに来ただろう?」

「?」

「だからさ。今日は真司君全然落ちつかなくてね」

「馨君、もういいじゃないか」

さすがに耐えきれなくなって真司がクチを挟む。

「真司!。
 あんた、コイツに何を言ったのよ」

「いや、そんな・・別に何かを言った訳じゃ・・・・
 ・・・は、ひたたたた!」

たじろぐ真司に近づくと明日香は、真司の頬を引っ張った。

「止めてよ!、明日香!」

「まぁまぁ、惣流さん。その辺で許してあげてよ。
 別に真司君が僕に何かを言った訳じゃないんだし。」

「え?」

「単に、ため息つきながら惣流さんに熱い視線を向けていたり、
 『明日香ぁ。今朝はどうしちゃったんだ』なんて独り言々っ
 てただけだから」

「か、馨君!」

「!!!!
 なお悪いわぁ!」

バシッ。

次の瞬間、彼女の手は真司の頬から離れるが速いか、真司の頬を
思いっきり張り飛ばしていた。

「あらあら」

「噂通りね」

「退屈しなくていいじゃない?」

「楽器は壊さないでね」

呆れ顔で見ている先輩達と、耳まで朱に染まりながら俯く明日香。
そして張り飛ばされたまま、無様に尻餅を付いている真司を馨は満足
そうに眺めていた。





******






「で?。
 何をどうすればいいの?」

「ああ、練習かい?。
 何も?」

馨はまたも薄笑い。真司はその後ろで先ほど来、明日香に殴られた頬を
押さえたままだ。その真司を睨みつけながら明日香は言った。

「どういうこと?」

「基本的に、うちの部は何も決めないんだ」

一瞬、明日香の顔に不快さの表情が過ぎる。

「ああ、そうじゃなくて、つまりね。部として決めてやるんじゃなく
 部員同士が適当にグループを作って練習するのさ。
 それらを集めて年一回の定期発表会に乗せるという訳なんだ」

「ふーん。それじゃあたしなんか不利な訳ね」

「どうして?」

「だって今日入ったばかりじゃいれてもらえるグループなんてないじゃ
 ない」

「一つあるよ」

「えっ?」

「僕と真司君さ。
 今のところ僕らもどこにも入ってない」

「あそう。なんか嫌ね」

「じゃ止めるかい?」

「まさか。
 ま、どうしても、というなら入ってやってもいいけど」

と言いながら明日香は真司の顔を伺う。
真司はまだ少しすねたような顔をしている。

「あー、もうしつっこいわねぇ。
 何時までも小さいことに拘ってんじゃないわよ」

と詰る明日香。

「だって・・・」

と抗弁しようとして明日香の表情に言葉が尻すぼみになる。
どうせ抗弁しても無駄なことだった。

「じゃ、お願いするよ。惣流さん」

「あ、え、ええっと分かったわ。
 で、どうするの?。
 今日は?」

「まず・・・」

「まず?」

「教室を確保すること。それから譜面台だな」

「へ?」

「ははは。競争なんだよ。じゃ、僕は教室を確保しに行くから、
 惣流さんは真司君と譜面台持ってきてくれる?」

「分かったわ」

「あ、馨君」

立ちあがる馨を真司は呼び止める。

「なに?」

「曲は?
 どうする?」

「ああ、バッハ辺りのトリオソナタでも。
 確か部室の書棚に幾つかあったと思うよ。
 なんせバイオリン2本にチェロ1本だからね。
 じゃよろしく」

譜面台と楽譜は結局、大きなチェロケースを担いだ真司が一人で
運ぶことになった。

「対決ね」

「えっ?」

明日香の不穏な表情に真司は少々不安になる。
急な展開で今まで気にならなかったが、そもそも明日香が音楽部に
入ること自体、何かを企んでいるような気がして仕方が無かったか
らだ。

・・・あの明日香が、ただで入部するなんてあり得ない。
ずいぶんな評価である。

「だってねぇ。トリオソナタっていったら、通奏低音以外は旋律線
 2本のバトルでしょ」

「バトルって・・明日香」

呆れた顔をする真司に明日香は決めつけるように言う。

「バトルなの!」

やれやれ。








****









廊下を歩いて行くと馨が、とある教室の入り口に立って手を振っていた。
「やあ。ここにしよう」
あちこちから既に練習し始めているグループの音が聞こえてくる。
音楽部は主に弦楽器と、フルート・オーボエ等の木管楽器の奏者が殆ど
だった。
この学校にはブラスバンドもある。
旧校舎の2階の教室は主に音楽部の練習に使用できるが、新校舎の教室は
全てブラスバンド部のパート練習用に占拠されていた。
馨の選んだ部屋は、新校舎寄りの位置にあった為、音楽部の他のグループ
の音の他に、ブラスバンド部のパート練習の音がかなり聞こえていた。

「な、なによ。
 ここじゃうるさくて練習になんないじゃない」

「すまないね。競争が激しくてね。
 先輩差し置いて良い部屋は取れないよ」

馨がすまなそうに言う。

「バトルなんだってば」

明日香は小声で言った。

「え?。何か言ったかい?」

「なんでもないわよ」

「うん、それにね。連中そのうち全体練習になるからね」

馨の言葉に明日香はあざ笑うように答える。

「そうね。それで全体練習に出してもらえない1年生の下手っぴぃだけが
 残される、
 ・・・てちっとも事態は改善しないでしょ!」

「ああ、そうだね」

馨は困ったように言うが、余り気にはしていない様子だ。

「さぁ、じゃあ始めようか」

馨と明日香がやりあっている間に真司は譜面台を立て、配置し終わっていた。

「馨君、
 どれにする?」
(こ、こいつ聞いちゃいない・・・・)と明日香は真司を睨み付けたが、真司
は気付く風もない。

「どれどれ・・・・
 じゃこれにしよう」

カール・フィリップ・エマニュエル・バッハ。大バッハの息子の作品。ニ長調。

「軽めの曲だしね。あんまり難しいこと考えずに楽しめるさ」

「ふ〜ん。
 いいわねぇ。真司。
 チェロは通奏低音だから楽で」

明日香は自分の怒りをそっちのけで準備をしていた真司に、真司の譜面台に乗っ
た楽譜を覗き込んで憎まれ口を叩く。

「なんだよ・・・」

「いやいや、どうしてどうして。通奏低音って結構それなりに難しいもんだよ」

馨が助け船を出す。

「そ、そうなの?」

真司自身、そっけない譜面づらに少々情けなくなっている。

「基本的にバロックの流れ汲んでるものの楽譜ってのは、覚書程度だからね」

「え?。そんな、これにアドリブでなんか乗せるなんて出来ないよ」

「今はいいよ。大体コード進行が頭に入ったら少しづつ憶えれば。
 あ、そうだこんど通奏低音の演奏法の本貸してあげよう」

「馨くん・・・」

「御託はいいからさっさと始めましょう!」

「あ、そうだね」

「・・・バトルなんだから」
明日香はもう一度、呟いた。












****














「じゃ、馨からね」

「ああ」

一楽章 Allegro un poco・・・・・・

真司の通奏低音に乗って馨のバイオリンが旋律を開始する。

明日香は思わず唇を噛み締める。
明日香にもそれが並々ならない音楽性を持っていることがはっきり分かった。
明るく瀟洒な旋律。装飾音符が余りないにも関わらず、旋律そのものが装飾
的なのだ。そしてその装飾的な音の連なりを馨は小気味よく置いて行く。
真司は、単なる根音の打音でも旋律に応じて如何様にも歌えることにすぐに
気が付いた。旋律にうなづくかのようなD音、あるいは肩透かしを食わせる
かのように、軽くA音にビブラートをかける。
一節馨が旋律を提示すると、それを追いかけるように明日香のパートが旋律
を模倣する。

明日香の音に真司ははっとする。いつもの明日香であれば、どんな旋律も全
ての音をはっきりさせすぎな為に重く硬くなりがちだったのに、その時の、
明日香は馨に対抗するかのように軽やかな、無論馨に比べれば鈍重な感じの
するのは否めないのだが、ともかくも曲想にぴったりとあった音を紡ぎ出し
ていた。

曲は二人の旋律があるときは絡み合い、あるときは提示と模倣あるいはその
変形を交互に繰り返しながら続いていく。
バトル。明日香はそう言っていた。だが追いかけるように提示の応答を返す
事はとりもなおさず、見事な協調を見せることになる。ニ声が寄り添うよう
に歌う個所では、まさしくシンクロして1つ声となり、何時の間にか対決姿
勢だった明日香も曲の流れに入り込んでいた。

再現部に入ると、最初と同じように主題の提示が、今度は明日香のパートか
ら始まる。最早明日香には硬さがすっかり消えて、確かに最初に馨が演奏し
たニュアンスを保ちながらも、あたかも自分の声のように歌いつづけている。
二人の音と、そして互いに応答しあうように演奏する二人の姿はバランスの
取れたカップルのように見えた。

「すごいよ!。惣流さん!」

「ま、ね。あたしにかかればこんなもん・・・」

と言いながらも実は明日香にとっても驚きだった。これほどに音楽の"中に
"居たように感じたことはこれまで一度もなかったことだ。

そして音が言葉よりも巧にやりとりを交わせ得た事にも始めて気が付いたのだ。
今まで何気なく弾いていた音の一つ一つが、どうしてそうでなければならな
いかを主張しているように感じられた。
その為か、強がって答えている明日香の頬は明らみ、視線には微かに恥じら
いの色が浮かんでいた。



「あ、でも、ここのところ、弓順で弾いてるね」

「え?。でもこれだと弓順でもいいかなって・・・」

「まあ確かにね。だけど、ほらここはダウン、ダウンで弾いて、ここでアップ
でやれば」

そういうと馨は、軽く弾いて見せる。最初は、まず明日香の言う通り弓順で。
次に馨のボウイングで。
何気ない弓使いが、鮮やかに旋律の色合いの違いを浮き立たせる。

「なるほど、違うわね」

「分かるかい」

「やってみる。ちょっと聞いてて」

真司は明日香の素直な反応に驚いたが、明日香が馨に一目置き始めたことが嬉
しかった。
とは言え、二人が全てのフレーズのボウイングについて仔細に検討を加えて行
く事になると真司はすっかり手持ち無沙汰になってしまった。
熱心に明日香と語り合う馨の姿に真司は軽い嫉妬のような感情を覚えていた。





第拾六章に続く。
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