か・げ・ろ・う
第五話 無くした日常
 
 
 
 
 
 
 

シンジは久しぶりの一中への通学路を歩いていた。

ミサトの元を離れてしまったため、途中に見える景色は大きく変わっている。しかしそれも一中へ近づくにつれ、いつもの見慣れた風景に変わってきた。約1週間ぶりのその景色もシンジにとっては遙か以前の物のように感じられていた。

他の生徒が通学してくるのよりは少し早い時間。学校内には、クラブ活動の朝練の生徒の姿がちらほらと見える程度だ。シンジはふと足を止めると後ろを振り返り、自分の歩いてきた道を見た。そしてミサトの元に居た頃に通っていた道へと視線を転じた。

トウジ、ケンスケ、アスカ、委員長...5人で歩いていた記憶がふとよみがえる。

『あのころボクは笑っていた』

胸の中にわき上がる苦しさ。シンジは思わず過去への想いから目をそらした。もう自分には望み得ない物、何より自分自身で壊してしまった物...

シンジはしばらくその場で顔を伏せ逡巡していたが、再び顔を上げるとそのまま何事もなかったように再び学校への道を歩みだした。
 
 

シンジはまだ人気の少ない校門をくぐり、下駄箱へと向かった。すでに登校している生徒は特にシンジに注意を払うでもなく各々の仕事に没頭している。シンジは何か安心した気持ちになり、下駄箱に手を掛けた。シンジの目には下駄箱の取っ手も2重に映る。すでにその状況に慣れてしまったシンジは、そのことを悲しいと思う気持ちは湧いてこなかった。シンジは手で探るようにして下駄箱のふたを開けると自分の上履きを取り出した。

「なんだろう」

シンジは自分の上履きの中に金色に光る物を見つけた。手にとってそれを見ると画鋲だった。『何故こんなものが』という気持ちはあった。シンジは他に何か入っていないか中を確認してから上履きを履き、教室へと向かった。何故自分の上履きに画鋲が入っていたのか、何かの間違いなのか、その答えが見つからないままシンジは自分の教室に入っていった。

そして自分の席に着いたときその答えを見つけた。
 
 

人殺し
 
 

机に大きく書かれたその文字は、シンジの心を大きくえぐった。誰が書いたのかは分からない。でも何のことを言っているのかは分かる。シンジは黙って掃除道具置き場から雑巾を取り出すと、固く水で絞ってその落書きをこすった。

雑巾でこすればその文字は薄れていく。しかしいくらこすってもその文字が消えて無くなることはない。シンジはそれが自分の犯した罪のように感じられた。二度と消え去ることが無く、刻み込まれた罪に...

いつしか机の上に水滴がついているのに、シンジは気づいた。そしてその水滴は見る間に増えていく。すでに手は止まり、シンジはただじっと歯を食いしばっていた。

「碇君」

その声に、シンジはびくりと震えた。しかしシンジには声の主を確かめる勇気は無かった。今の自分が酷い顔をしているのは知っている。しかしシンジに声を掛けた生徒はそんなことにかまわず、シンジの席に来ると一緒に机の上を拭きだした。

「洞木さん」

シンジはその生徒に向かってそうつぶやいた。ある意味シンジにとって一番顔を合わせるのが辛い相手。シンジはリツコからヒカリがトウジの元に看病に訪れているのを聞いていた。いくら鈍いと言われているシンジにも、ヒカリの想いには気がついていた。

「碇君、ごめん。
 気をつけて居るんだけど、誰かがするのよ」

ヒカリはそう言って、何かの薬液でシンジの机の上を拭いていく。見る見るうちに綺麗になっていくシンジの机。シンジは惚けたようにその光景を見つめていた。ヒカリは机の上を拭き終わるとシンジから雑巾を取り上げ教室から出ていった。
 
 

時間が経つとパラパラと生徒の数が増えてくる。シンジには一人一人が自分に対して顔を合わせないようにしているのが感じ取れた。シンジはそれも仕方ないかとあきらめていた。机の上にこんな事が書かれるようでは、全員がシンジの事を知っているのだろうと。

教室の喧噪が高まってきた頃に登校してきたケンスケは、シンジの姿を見つけるとすぐにシンジの元に駆け寄り、シンジを教室の外に連れ出した。

「すまん、シンジ...大体の事情は委員長から聞いたよ。
 でもクラスにはどこからか話が歪んで伝わったんだ。
 俺も委員長も気をつけて居るんだけど、こればっかりはどうにもならない。
 だけど信じてくれ。俺も委員長もシンジの味方だ。
 俺がシンジに何が出来るか分からない、でもこれだけは信じてくれ。
 俺はお前の事を親友だと思っている。」

「ありがとう、ケンスケ...洞木さんも?」

シンジは少し意外な気がした。誰よりもヒカリに恨まれているのだろうとシンジは考えていた。そのヒカリがシンジの味方。シンジにはその理由が分からなかった。

シンジの怪訝な表情に気が付いたのか、ケンスケは説明を続けた。

「委員長はトウジからすべての事情を聞いて居るんだ。
 何故トウジがエヴァに乗ることになったのか。
 何故トウジが死ぬほどの目に遭ったのか。
 そしてお前が抱えている物も...
 俺達が軽々しく口に出来ることでは無いし、どんな慰めも役に立たないことも知っている。
 偽善なのかも知れない。でも俺はお前の手伝いをしたいんだ」

シンジは、ケンスケの言葉に胸が熱くなる思いを感じていた。

「このことは誰が知っているの」

「俺と委員長だけだ。
 他の奴らは知らないはずだ」

ケンスケはそう言ってシンジと教室に戻った。

教室にはすでにアスカもレイも来ていた。シンジは二人に顔を合わすことが遅れたのを、正直言ってほっとしていた。万事がそれで解決するわけでは無いことぐらい分かっている。それでもこれからシンジがしようと決意していたことは辛すぎた。シンジはただじっと身を固くしてただ時間が過ぎるのを待っていた。

休憩時間が来ると、すぐにケンスケはシンジの元へとやってきた。そしてヒカリは遠くからシンジの姿を見守っていた。レイはいつものように窓の外をぼうっと眺め、アスカの方は無関心を装うことに失敗し、ヒカリの姿をじっと見つめていた。
 
 
 

***
 
 
 

「シンジ、適当にパンを買ってくるからそこにいてくれ」

昼休みが来るとケンスケはそう言って購買へ自分の分も含め買いに走った。シンジは自分に気を使ってくれる二人の友人に胸の詰まる思いがした。同時に自分はここにいてはいけないのではとも思うようになっていた。

しかしここには自分の居場所が無い。シンジは学校に来ることへの限界を感じていた。
友達に負担をかけないと維持できない生活に、シンジは大きな喪失感を感じていた。
学校に来ること自体、シンジが父に頼んだ最後のわがままだった。それももうシンジにとって意味をなさなくなっていた。

このまま静かに消えてしまえば、どんなにか楽だろう...

ケンスケを待ちながら、シンジはそんな思いに囚われていた。
 
 

昼食はケンスケが買ってきたパンを二人で食べた。簡単な調理パンと菓子パン。それにパックの牛乳 。育ち盛りの中学生ならあっという間に胃袋に収まってしまいそうな物なのだが、シンジの机に置かれたパンはなかなか減っていかない。シンジ自身食欲が湧いて来ないことが大きな理由にあるのだが、ケンスケもまたシンジの動作をじっと見つめ、自分自身の食が進んでいなかった。
 

「ケンスケ...聞きたいことが有るんだろ」
 

ケンスケが自分のことを見つめているのに気が付いたシンジは、パンを食べていた手を止めそう聞いた。

シンジのその言葉に、ケンスケは頷いた。そして「でもここで出来る話じゃないだろ」と言って自分の持っていたパンにかぶりついた。そのまま二人は言葉を交わすことなく食事を続けた。
 

シンジとケンスケがのんびりと(他人にはそう見える)昼食を食べているとき、その様子にアスカは苛立っていた。今日の午後からはシンクロテストが予定されており、そろそろ学校を出なくてはいけない時刻になっていたからだ。すでに後ろではレイが準備を済ませ、同じようにシンジの方を見つめている。

いつまでたっても動き出さないシンジにしびれをきらし、アスカはようやく食事の終わった二人の所へと近づいた。ケンスケはアスカを認めた瞬間、シンジの顔から全ての表情が消え失せたのに気が付いた。
 

「ちょっと、いつまでぼけぼけしてんのよ。
 今日はシンクロテストがある日でしょ。すぐに準備しなさいよ」
 

いっぱいの棘を含んだその言葉に、シンジはアスカの顔も見ないで答えを返した。その言葉はケンスケの知っているシンジの物ではなかった。

「ボクには必要ないよ。嘘だと思ったらリツコさんに聞いてごらん。
 今日のテストはこっぴどく負けた惣流と綾波の為にするんだから」

シンジは負けたと言うところに特に力を入れて返答した。その瞬間、怒りにアスカの顔が紅潮した。そしてぎゅっと右手を握りしめるとそのままぷいと振り返り、足音を立てるようにその場を後にした。

「お、おい、シンジ」

さすがに状況の掴めないケンスケは、シンジの言葉に狼狽えることしかできなかった。しかしアスカらが去った後にシンジの浮かべた表情で全てが分かった気がした。
 

「何でわざわざ嫌われるような真似をするんだ」
 

シンジは泣きそうな表情を浮かべ、ケンスケに向かって言った。

「だって好かれているより嫌われている方が楽じゃないか。
 ボクにはもうどうしようも出来ないんだから」

力のないシンジの姿に、ケンスケはかける言葉が無かった。ただ彼は心の中で『大馬鹿やろう』とだけ呟いていた。
 
 
 

***
 
 
 

リツコはアスカとレイがやってきたのを見つけると、「遅かったわね」と言い、シンクロテストの準備を始めようとした。しかしいつまで経っても二人が動き出さないのをいぶかしく思い、キーボードを叩いていた手を止めどうしたのかと問いかけた。
 

「どうしてシンジはテストをしないの」
 

アスカの質問にリツコは『やはり来たか』と思った。テストを続けていく以上、避けられないことが分かっていた質問。リツコは椅子から立ち上がり二人に向き直った。

「今日は臨時よ。
 零号機と弐号機の修理が上がったから、その確認。
 だからシンジ君には関係ないわ」

リツコはそう言いながら、これからの試験はシンジも呼んでダミーのテストを行わなければと考えていた。どうすればそれらしく試験が行えるか、リツコの思考はすでにそちらに飛んでいた。

「そう...分かったわ」

その答えにあっさりとアスカが引き下がったことに、リツコは少し拍子抜けした。何かもっと文句が出るのではないかと身構えていたのが肩すかしを食った気分だった。安心したリツコは再び椅子に腰をかけると、MAGIの端末に向かい合った。

しかしリツコは、二人がじっとリツコの姿を観察していたことに気が付かなかった。赤と蒼。二組の瞳はじっとリツコの姿を見据えていた。二人はしばらくリツコの様子をうかがっていたが、シンクロテストを行うためテストプラグへと消えていった。

しかし悪いときには悪いことが重なる。二人のシンクロテストが終わったとき、リツコは新たな問題を抱えることになった。セカンドチルドレン、惣流アスカ・ラングレーのシンクロ率が大きく低下していたのだ。
 
 
 

***
 
 
 

授業が終わり、ホームルームが終わったところでケンスケはシンジを誘った。途中まで一緒に帰ろうと。シンジはケンスケの厚意をありがたく受けることにした。

夕方になろうという第三新東京市の町中を、二人は並んで歩いていた。何も話さない、何も聞かない。それでもケンスケはシンジが時折見せる仕草に、シンジの具合が聞いていたよりも悪いことを確信していた。

『何でシンジがこんな目に遭わなくちゃいけないんだ』

シンジやトウジがエヴァに乗れることをケンスケは羨んだこともあった。しかしその気持ちはとうに失せている。エヴァに乗ることは遊びではないのだ、命を懸け、命を削る行為なのだ。ケンスケは隣を歩く親友を見て、そう理解した。あこがれで乗れるような代物ではないのだと。
 
 

「ここから先はケンスケは入れないから」

小さな建物の前でシンジはケンスケに向かってそう言った。ここから先はネルフのIDが無いと入れない区画であると。ケンスケは一言分かったよと言うと、「また明日な」そう言ってその場を立ち去った。

後ろを振り返らず歩くケンスケの姿が小さくなるまでシンジは見送っていた。そして一言「さようなら」と言ってシンジはゲートの中に消えていった。

翌日から学校にシンジの姿は無かった。
 
 
 

続く
 


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中昭のコメント(感想として・・・)

  >『あのころボクは笑っていた』
  あうっち。胸にずしぃーんと来ましたですね


  かげろう 第五話。トータスさんから頂きました。


  >友達に負担をかけないと維持できない生活に、シンジは大きな喪失感を感じていた。
  >学校に来ること自体、シンジが父に頼んだ最後のわがままだった。それももうシンジにとって意味をなさなくなっていた。
  おおおわずかな救い(日常)さえなくなってしまうシンジ

  >このまま静かに消えてしまえば、どんなにか楽だろう...
  >「何でわざわざ嫌われるような真似をするんだ」
  このまま身近な人達から嫌われたままおわってしまうのかっ


  >リツコはそう言いながら、これからの試験はシンジも呼んでダミーのテストを行わなければと考えていた。どうす

  やっぱ、シンジの健康状態については話さないわけですな。

  >しかしリツコは、二人がじっとリツコの姿を観察していたことに気が付かなかった。赤と蒼。二組の瞳はじっとリツコの姿を見据えていた。
  なんだか意味深。シンジの心配をしてるって事は……ないか  

  >セカンドチルドレン、惣流アスカ・ラングレーのシンクロ率が大きく低下していたのだ。
  レイの特攻と精神崩壊……………
  次回が楽しみです





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