か・げ・ろ・う
第六話 天使の狂宴(前)
 
 
 

久しぶりに3人揃ったシンクロテストで、赤木リツコは苦虫をかみつぶした表情をしていた。ここのところアスカの示すシンクロ値が連日下がり続けているのだ。

「アスカのシンクロ値、また下がっていますね」

伊吹マヤはマイクのスイッチがオフになっていることを確認してから、そうリツコに向かって言った。
リツコはそんなマヤに向かって何も答えなかった。

「起動指数ぎりぎりです」

マヤは報告するのが申し訳ないように、データをリツコに伝えた。

「アスカはちょっと体調が悪いのよ。
 二日目だし...」

その場に、ミサトの言葉が言い訳のように響く。

「表層的な身体の状態が、シンクロ値に影響を与えないことは、あなたでも知っているでしょ。
 問題はもっと深層にあるのよ」

リツコの顔は保護者は何をやっているのよ。暗にそうミサトを責めていた。

ミサトの方もリツコの視線の意味に気が付いたのか、「そんなことは分かっている」とばかりぷいと顔を逸らした。テストを監視するディスプレーには難しい顔をしたアスカが映し出されていた。

「3人とも上がって良いわよ」

リツコのその言葉で、久しぶりに3人が揃ったシンクロテストは終わりを告げた。
 
 

***




レイにとってシンクロテストは楽しみの一つとなった。それは、学校で顔を合わせることの無くなったシンジと会うことの出来る唯一の場所であるからだ。だからレイは自分でも気が付かないうちにシンジの表情を追っていた。

そしてレイはシンジの顔から表情が消えていることに気が付いた。ブリーフィングの間、彼の表情は揺るぐことが無かったのだ。しかしレイは、表情の消えたシンジが一瞬だけ感情を表したのを見逃さなかった。

シンクロ値が起動指数ぎりぎりであることを告げられ、セカンドチルドレンが部屋を飛び出していった時、初めてシンジの顔に彼女を気遣う表情が現れていたのだ。『碇君は弐号機パイロットを心配している』、胸に少しの痛みを感じながらも、彼女はすぐに行動を起こした。

「心配なら追いかけたら」

突然レイが声を掛けたことで、シンジは驚きの表情を浮かべた。しかしそれも拭われたように、一瞬の後に消え去っていた。

「心配。なぜ。ボクが...そんなことはないよ」

抑揚を押さえた声でシンジはそう答えた。

「うそ。碇君はあの人を心配しているわ」

「ボクが惣流を心配しているって。
 ボクが心配しているのは、彼女が足手まといにならないかってことだけだよ。
 中途半端なままならエヴァに乗らない方がいい」

そうすれば死ぬことも無い、とシンジは考えた。使徒も後3体。それぐらいならボクの頭も持つだろうと。

「碇君はあの人のことが大切じゃないの」

「大切...?
 何故そう思うの」

「碇君...あの人と居るとき楽しそうだった。
 今の碇君は楽しそうじゃない...」

「それと僕が惣流の事を大切だと思うことに何の関係があるの。
 百歩譲って僕が惣流の事を大切に思っているとしたら、
 彼女にこれ以上エヴァに乗って貰いたくないと言うのは自然だと思わないか」

シンジの言葉にレイは首を横に振った。

「あなたは彼女のことが分かってないわ...
 あの人にもエヴァしか絆が無いのよ。
 そう、私と同じ...」

そう言い残してレイもまた部屋を出ていった。
 
 
 
 

レイが出ていき、リツコと二人きりになったシンジはぽつりと呟いた。

「かあさん。ボクは間違っているの」

その質問にリツコは答えることが出来なかった。「間違っている」と答えることは簡単だ。しかしそう答えてしまったら、シンジはアスカの苦悩まで背負い込んでしまうことになる。そんなことをさせたらシンジが壊れてしまうのではないか。リツコはそう危惧していた。

「私には分からないわ。
 でもね、アスカに助けが必要なのは確かだわ」

リツコの答えにシンジは彼女の顔を見つめた。

「それなら...
 それならボクには無理だよ。
 ボクはアスカに嫌われている。
 加持さんじゃないと...」

その言葉にリツコは、シンジの中のアスカの姿を見た気がした。
 
 

***




着替えが終わった後、アスカは女子トイレで苦しんでいた。

女性にとって生理の苦しみは人それぞれである。アスカのそれが人とくらべて特に重いかどうかは分からないが、経験の少ない彼女にとってそれは耐え難い苦痛でもあった。もっとも肉体的な物だけが彼女を苦しめているわけでは無かったが...

「どうしてよ...」

こみ上げてくる生唾を吐き出しながらアスカは呻いた。静まり返った女子トイレには、蛇口から流れ出す水の音だけが響いている。

「どうして...」

シクシクと痛む下腹部をアスカは押さえる。

「女になんかならなくたっていいのに...」

そのまま蹲り、嵐が過ぎ去るのをじっと待つ。

「・・・・加持さんも女のアタシを見てくれない」

アスカの額に脂汗がにじんでくる。

「だったら女になんかなりたくない...」

固く瞑った瞼から涙がこぼれ落ちる。汲めども尽きない泉のように。

「...一人はいやなのよぉ」

誰も来ないトイレに、アスカの嗚咽混じりの泣き声が響いていた。
 
 
 
 
 
 
 

痛み止めのクスリを飲み、少し体が楽になったところで、アスカはマンションに帰ることにした。
 

足取りは重い。
 

マンションに帰ったところで誰かが待っているわけでは無い。自分で用意しなければ食事をとることも出来ない。暗いマンションに帰っていくと、自分の心が冷えていく錯覚に陥る。そんなときアスカの心に頼りなく笑う元同居人の顔が浮かんだ。

「何でシンジの顔なんか思い出すのよ」

口ではそう吐き捨てたが、アスカにはその理由は分かっている。シンジがいてミサトが居る。あの生活は自分に取って心地よかったのだと。

アスカは思いっきり壁を殴りつた。しびれるような痛みが拳を伝わってくる。アスカは、その痛みで自分の心を奮い立たせてエレベーターのボタンを押した。

ほどなくして静かに開くエレベーターの扉、その中に会いたくない人間が中に乗っているのにアスカは気づいた。一瞬乗り込むことをに躊躇ったアスカだったが、このままやり過ごすこと自身負けたように感じられ、唇を噛みしめるとそのままエレベーターに乗り込んでいった。

ドアが閉じるとエレベーターは静かに上昇を始める。運悪くと言うか、途中でだれも乗り込んでこない。二人きりの重苦しい沈黙の中、口を開いたのはレイの方だった。

「…何を恐れるの」

硬質な声が静寂を切り裂いた。

「恐れてるってぇの、このあたしが」

レイの抑揚を欠いた声に、自分の心が見透かされたような気がして、アスカはつい大声を上げていた。

「…そう、あなたは恐れている。
 その恐怖に立ち向かわず、心を閉ざすことで恐怖を忘れようとしている。
 心を閉ざしていたらエヴァは動かないわ」

「分かったようなことを言わないでよ。
 私が何を恐れているって言うのよ」

「…分かっているはずよ」

じっと自分を見つめる赤い瞳にアスカは気圧されていた。今の彼女には、レイの問いかけを正面から受け止めることは出来なかった。

「あ〜あ、あたしも焼きが回った物ね。
 シンジには馬鹿にされ、人形女には心配される」

「あたしは人形じゃない」

人形と言う言葉にレイの表情が固くなる。

「うるさい、司令に言われたままに動くくせに。
 アンタ、司令が死ねと言ったら死ぬんでしょう」

「そうよ」

その瞬間アスカの手のひらはレイの頬を打っていた。折しも開いた扉からアスカは飛び出すと、閉まりかけていた扉に向かって大きな声で叫んだ。

「アンタって昔から嫌いだったのよ。
 すました顔で人を見下して、なんのつもりなのよ」

アスカのその罵声にレイは何も答えなかった。そのままエレベーターの扉は閉まり、レイの姿も同時に消え失せた。アスカはしばらくその扉を睨み付けていたが、そのままきびすを返しマンションへと帰っていった。

再び上昇を始めたエレベーター、レイもまたアスカの消えた扉をしばらくじっと見つめていた。そして消え入りそうな小さな声でぽつりと呟いた。

「…私も恐いのよ」
 
 

***




リツコの元でシンジはいつものように頭の検査を受けていた。スキャンによる病巣の成長の確認。四肢への影響の確認。投与している薬の副作用の確認。一つ一つ示されるデータをリツコは難しい顔をして眺めていた。

軽いブザーの音と共に検査室の扉が開き、そこからシンジが現れた。それと同時にリツコの元の電話のベルが鳴り響いた。リツコは受話器を取ると、二言三言会話を交わしたが、すぐに小さな溜息を一つ吐いて受話器を下ろした。

「どうしたんですか」

リツコの吐いた溜息に気づいたシンジは、その理由を聞いた。

「アスカがね...
 ミサトのマンションを出て洞木さんの所に泊まりに行ったようよ」

ヒカリの名前が出たことで、シンジは安堵の息をもらした。『彼女の所なら大丈夫安心だ』と。

シンジのその姿にリツコは小さく微笑んだ。

「冷たくしているようでも、やっぱりアスカのことは気になるのね」

リツコの言葉にシンジは首を横に振った。

「アスカだけじゃないですよ。
 綾波もミサトさんもかあさんも父さんもみんな心配です。
 みんな僕の大切な人たちですから」

「ならどうして二人に優しくしないの」

「そんなの...
 そうしたら聞かれるじゃないか...僕のこと。
 話せるわけ無いじゃないか」

リツコは立ち上がると、シンジの元へと歩み寄った。

「だから嫌われるようにし向けているの...その方が楽だから」

「いけないって言うんですか」

「そんなことは言わないわ。
 だってどこにも答えは無いんですもの。
 でもねシンジ。
 あなたはそれで良いの」

リツコはシンジと目線を合わせてそう聞いた。

「良いんです。
 アスカ達だって、嫌いな...死んだ人間を憎んでいた方が傷つかないから。
 それで良いんです。
 それにアスカには加持さんがいるし、綾波には父さんが居ます。
 だから大丈夫ですよ...僕なんか居なくたって...」

リツコから目をそらし、感情を無くしたように話すシンジに、彼女は一つの決心をした。

「シンジ...あなたに全て教えるわ。
 レイのこと、アスカのこと...そして私たちのこと」

リツコはそういうと、司令室へ電話をした。
 
 

***




洞木ヒカリは突然の友人の訪問に驚いた。そして友人の浮かべた思い詰めた表情に、予感めいたもの感じて自室へと招き入れた。

「アスカ...夕飯はどうしたの」

「・・・食べてない」

力無く呟かれたアスカの答えに、ヒカリは小さく溜息を吐いた。

「じゃ、じゃあさ、これから夕飯の用意をするからさ。
 アスカ...先にお風呂に入ってこない」

そういって、ヒカリはアスカを風呂に押し込むと、冷蔵庫の中を覗き込んだ。

「これならすぐに準備が出来るわね」

そういうと、ヒカリは受話器を取り上げ、『碇君出てよ...』と呟きながら彼女はボタンを押した。しかしヒカリの期待に反して、聞こえてきたのは着信できないとのメッセージだった。シンジと連絡が取れないことに彼女は失望の溜息を吐くと、そのままアスカの夕食の準備に取りかかった。

ちょうど準備が出来上がった時、アスカがお風呂から上がってきた。Tシャツにホットパンツ、それはアスカのいつもの姿。しかし、そこにはいつものまぶしいほどの輝きは無かった。
 

ヒカリの進めるままに職を進めていたアスカだったが、その手もついつい止まりがちになる。その都度ヒカリはアスカに、「食欲無いの」と尋ねた。
 

アスカはその都度「何でもない」とアスカは答え箸を動かすが、それもまたすぐに止まってしまう。その様子にヒカリは小さな溜息を吐くと、「どうしたのアスカ」と切り出した。

しかしそれにも「なんでもない」とアスカは小さく答えるだけだった...
 
 
 
 

結局、食事が済んでも二人の間にまともな会話が成立することは無かった。ふさぎ込むアスカに、話を聞こうとするヒカリ、何度もその構図が繰り返され、ついには根負けしたヒカリ、は黙ってアスカのしたいようにする事にした。結局そのままふたりの間に会話が成立することもなく、寝る時間を迎えた。

少女達は一人の為には幾分広いベッドに、二つ枕を並べて横たわっていた。すでに明かりは落とされている。しかしヒカリは寝付くことができなかった。二人は眠りについていなかった。アスカにヒカリには自分がアスカの親友である自負がある。彼女は何か話したいことがあってここに来たのだ。そう確信して彼女は親友が話をしてくれることを辛抱強く待った。
 

どれくらい時間がたったのだろう。まだ眠っていないことを知っているかのように、アスカかの口から言葉が漏れ出てきた 

「ねえ、ヒカリ...」

「何アスカ...」

「...アタシ迷惑だった」

「ううん、そんなことない。
 でもどうしたのアスカ...元気ないよ」

ヒカリの言葉にアスカは堰を切ったように泣き出した。ヒカリには寂しげな泣き声をあげる友人の体を抱きしめることしかできなかった。

「アスカ...泣かないで。
 私で良かったら話を聞いてあげる...
 だから泣かないで」

しかし彼女の言葉に応えることもなく、アスカはただただ泣き続けた...
心の中の悲しみを全て洗い流すように...
 
 
 

続く
 


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中昭のコメント(感想として・・・)

  かげろう 第六話。トータスさんから頂きました。


  本編(TV・映画)だと、シンジやミサトへの反発から家を飛び出してた感じですが
  「かげろう」では誰もいない部屋から逃げだしてますですね。
  NERVに居る時にしか周りに人が居ないとしたらますますEVAへの依存度が高まるような
  あ、でも学校が・・・というよりヒカリがいるか。
  ヒカリにも理解してもらえないとなったら、精神崩壊へ一直線でしょうけど
  どうなるでしょうか(はらはら)



  >「シンジ...あなたに全て教えるわ。
  >レイのこと、アスカのこと...そして私たちのこと」

  シンジがどういう反応を示すか。
  次回が楽しみです





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