か・げ・ろ・う

第七話 天使の狂宴(中)
 
 
 
 
 

間が悪い時と言うのものは本当に存在し、そう言うときに限って重大な事件が起きる物である。碇シンジが、少女達の生い立ちを父、母から聞き、その意味をまだ自分の中で消化できないでいたときその事件は起きた。

その日、ネルフでは日常的に行われる観測ルーチンの中で、MAGIは遙か上空に、微弱ながらも使徒の反応をキャッチした。日本から遙か遠く南の海の上、さらに空高く成層圏に使徒は現れた。しかし、発見された後も全く自らの位置を変えようとはしない姿は、遙か高見から第三新東京市の地下にうごめく人間達を観察しているようでもあった。

いつまで経っても動き出す気配の無い使徒に、次第にネルフは焦りの色を濃くしていった。これまで常軌を逸した行動をとってきた使徒のことである、遙か遠方にいるからといって安心できるものではない。かといってとれる行動は限られている。このまま相手が動き出すのを待つか、こちらから攻撃を仕掛けるか、簡単に言えば二つの選択肢しか用意されていなかった。しかし攻撃をすると言っても、現有の武器では成功率のある手段は存在していない。つまり完全に手詰まりの状態に、ネルフは追いやられていた。
 

そのため、ネルフは神経をすり減らすような時間を過ごさなくてはならなかった。
 

「目標高度を高度を一定に保ったまま移動しません」

定期的にあげられる青葉の報告も、先ほどから何の変化もない。

「前みたいに落ちてくるって訳じゃなさそうね」

全く動きのない使徒の映像に向かってミサトは呟いた。そこにはまるで鳥が羽を広げたような姿で、使徒が遥か上空で静止していた。

「UNが高空爆雷攻撃をするかと聞いてきていますが」

日向の言葉にミサトは何かを考えるように天を仰いだ。効果は薄いかも知れないが、何らかの転機になるのではないか。ミサトは頭の中の整理をつけた。

「効果があるとは思えないけど、やらないよりはましか。
 司令、いいですね」

ゲンドウが肯いたのを確認して、ミサトは日向に承諾の指示を出した。
 

2時間ほどして海上から10基のロケットが打ち上げられた。ネルフが動けないことに自らの価値を見つけたのか、意外に早いUNの行動だった。しかし彼らの奮戦もむなしく、使徒を背後から狙い撃ったN2爆雷は、使徒の背後で巨大な閃光をあげるだけだった。

天空に輝いた巨大な閃光の消えた後には、全く位置を変えない使徒の姿が残された。

ミサトとしては気の進まないことだった。これだけの距離にいては有効な作戦がとれないのは目に見えている。それでも使徒殲滅を存在意義とするネルフは、エヴァを出さないわけにはいかなかった。

「エヴァを出すしかないのか...」

ミサトは小さく呟くとエヴァに待機している二人に指示を出した。

「レイ、アスカ...
 これから超長距離狙撃を行います」

ここでミサトは気の迷いからか、一瞬の間を置いた。

「先鋒を零号機、バックアップを弐号機。
 各自配置に就いて」

ミサトとしては現在の状況から考え得る、指揮官として最善と考えられる判断だった。しかしこの配置は、アスカの心の中でくすぶっていた不安を増大させる結果となった。

「バックアップ!?アタシが...」

押しつぶされそうな不安から来る焦りに、アスカは命令を遵守するという基本的且つ重大なことを忘れた。

「エヴァンゲリオン弐号機出ます」

弐号機からの制御でカタパルトが動き出す。ミサトの制止の間もなく、弐号機がケイジから消えていった。
 

今のアスカの精神状態は極度に不安定である。だから“作戦として”レイを前に立てたかった。しかし出てしまったアスカを戻す事となったら、はっきりと能力不足を言い渡す事になる。叱責して引き戻すのは簡単である。しかし、そうしてしまったらアスカは立ち直れないかもしれない。ミサトはここで計算を働かせた。“射撃だけなら何とかなるかも知れない”その思いにミサトはアスカの独断専行を許した。

「レイ、アスカのバックアップに出て」

たとえ遠距離射撃に効果がなくてもいい、一つのミッションが無事に終わって欲しい。それがミサトの願いだった。
 
 
 

***
 
 
 

冷たい雨が、アスカの乗った弐号機の機体を叩く。完全に温度調整をされているプラグ内に居ても、エヴァとシンクロしているアスカにその感触が伝わってくる。

「アタシには後がない...」

口ほどに戦績をあげていない事は理解している。しかし、これまではそれを作戦のせいにすることができた。それはデータとして示されるシンクロ率の高さという裏付けがあってのことだった。“誰よりもうまくエヴァを扱える”それだけが戦果を上げない中でのアスカの支えだった。しかしそのシンクロ率は低下し、今ではシンジに遙か及ばない。その上、前の戦いの惨敗である。

弐号機がプロダクションモデルであるというのなら、パイロットに対する親和性も高いはずだ。それはすなわちパイロットの変更も可能である事を示唆している。その証拠とでもいうべきか、なんの訓練もない鈴原トウジが参号機パイロットとして選出された実績もある。

「アタシは負けてはいけないのよ」

すでに勝負の相手は使徒ではない。そんなアスカ自身の思いが、自分を追いつめていた。

「ファーストに...何よりシンジに」

アスカはMAGIの作り出した照準画像に、使徒が合致するのを待った。機体を打つ冷たい雨も、いつしか気にならなくなっていた。

依然として使徒は射程には入ってこない。使徒の姿の前で、照準を示す十字はふらふらと動いている。何時まで経っても変化の現れない状況に、追いつめられたアスカは焦りを露わにしていた。

「もう、じれったいわね。
 さっさとこっちに来なさいよ」

アスカの言葉を待っていたわけではないが、大気の安定とMAGIの補正が進んだ結果、見かけ上は使徒に照準が合ったように表示された。アスカはそれを確認すると、ライフルを握る指に力を込めた。時間にしてほんの数百ミリセカンド、しかし長大な破壊の筒からエネルギーが迸り出るのよりも早く使徒が動いた。いや動いたというのは正確ではないだろう。位置的には依然もとの場所を保っていたのだから。
 

突然スコープの中の使徒が発光を始めたのだ。
 

途中にあった雲を切り裂き、使徒の放った光が弐号機に降り注いだ。じとじとと降り注ぐ雨の中、雲の間から差し込む光の筋は、一種の神々しさを持っていた。しかしその実体は、神の恵みからはほど遠く、追いつめられた少女には過酷な試練となった。
 
 

アスカはスコープの使徒が光ったと感じた瞬間、強烈な頭痛に襲われた。そして次の瞬間、その頭痛は眼球のイメージでアスカの心の中で実体化した。突然アスカの心に現れた目玉は、アスカの心の中を覗き込むようにさまよい歩いた。丹念にアスカの記憶のひだの一枚一枚を漏らすことなく、心の奥に二重三重に沈めた記憶までも見逃すことなくさらけ出していく。いたずらな子供が小鳥の羽をもぎっていくように、“見る”と言う使徒の行為は容赦なく行われていった。
 

その行為に、アスカはただ絶叫を上げる事しかできなかった。
 

「いやぁあ〜」

大きく響くアスカの悲鳴とともに、発令所の動きも俄然あわただしくなった。それまで安定していたパイロットの心理グラフが、悲鳴とともに糸を絡めた様に千々に乱れだしていた。それはそのままパイロットの精神の崩壊につながっていく。

「リツコどうしたの!」

ミサトは、絶叫を上げているアスカの様子をリツコに尋ねた。何が起こったのか、何か打つ手がないのかと。しかしリツコから帰ってきた答えは至ってあっさりとした物だった。

「使徒の精神攻撃。
 そうとしか言いようがないわ」

「何落ち着いてんのよ。
 なんか手を打ちなさいよ」

意外なほどに落ち着いているリツコの様子に、ミサトは声を荒げた。

「慌てて何とかなるんだったら、いくらでも慌ててやるわよ。
 こっちはこっちで打てる手を打とうとしているんだから。
 でもね、今の所何をやっても効果が無いのよ。
 文句を言う前にアスカを撤退させなさい」

リツコはそう言い放った。その間にも忙しく動いていた手は止まる事がなかった。

「なら早くそう言いなさいよ。
 アスカ撤退よ。下がりなさい」

ミサトはマイクを握って大声を上げた。しかしアスカから返ってきたのは予想外の答えだった。

「いやぁ...ここで下がるくらいだったら...
 無様なところを見せるくらいだったら、死んだ方がましよぉ。
 私は絶対に下がらない」

弐号機をのたうたせながらアスカが叫ぶ。手に持ったライフルを誤射していないだけ大した物であるが、すでに戦力として弐号機は役に立たない状態に陥っていた。

ミサトはその答えに苦虫を噛み潰したような表情を浮かべ、オペレーターにシンクロのカットを命じた。本人にその気が無いのなら無理矢理にも止めてやると。しかし、オペレーターから返ってきた答えは予想外のものであった。

「弐号機信号拒絶。
 シンクロカットできません」

一瞬の逡巡も無く、ミサトは次の指示を出した。

「外部電源パージ!」

命令の復唱と同時に、エヴァの活動時間を示すゲージが5分からカウントダウンを始めた。ミサトはそれを確認して、マイクをとって零号機を呼び出した。

「レイ、ポジトロンライフル発射。
 使徒を牽制して」

命令とともに零号機から放たれた光条は、厚く覆われた雲をつきぬけ使徒へと迫った。しかしその攻撃も赤い壁によって、使徒の目前で有らぬ方向へと進路を変えられた。

「陽電子、ATフィールドで防がれました。
 出力が不足しています」

「しかし今のが最大出力です!」

予想されたことである。しかし、これで今のネルフには完全に打つ手が無くなってしまった。目の前で苦しんでいる弐号機は電源が切れるのを待つしかなく、使徒への攻撃は新たな動きを待つしかなかった。
 

その間もアスカの悲鳴が響き続ける。
 

「アスカ下がって!」

ミサトの命令にも、アスカは反応すらしなくなっていた。ミサトは、5分という時間がこれほど長いとは思わずにはいられなかった。

「僕が出ます!」

完全な手詰まりの中、初号機で待機していたシンジがスクリーンに現れた。自分が行って弐号機を引き戻す。しかしそのシンジの意志も、ゲンドウによって直ちに却下された。

「いかん、出撃を許可できん」

「どうしてだよ、父さん。
 早く助けないと、アスカがやられてしまう」

「あの使徒は精神を犯すタイプのようだ。
 このままお前が出ていって、初号機まで使徒に犯されたらどうするのだ。
 我々はそのリスクを負うわけには行かない」

「だったらやられなければ良いじゃないか」

「その保証はどこにもない。
 それに、お前が出てどうなると言うのだ。
 どうやって彼女を助けるというんだ。
 彼女は自分で撤退を拒んでいる。
 お前が出ていって助けても怨まれるだけだ」

「そんな事は構わない。
 このままだったらアスカが...アスカが...」

ゲンドウはシンジの言葉に構わず、マイクを取った。

「弐号機パイロットどうした、撤退しろ。
 パイロットとしての職務を全うしろ」

しかしゲンドウの命令は少し遅かった。すでにアスカの心は使徒に蝕まれ、自ら撤退をする事もできない状態に追い込まれていた。

「僕はアスカを守るって誓ったんだ」

スクリーンに映し出されたシンジの姿に迷いはない。

「初号機出ます」

拘束具を引きちぎろうとする初号機の映像に、全員がゲンドウの顔色を伺った。そしてそこに意外なものを見つけ、一様に驚いた表情を浮かべた。

モニターを見つめるゲンドウは、かすかな笑みを浮かべていた。

「伊吹二尉、かまわん出してやれ」

予測だにしないゲンドウの指示に、マヤは慌ててキーを叩いた。その瞬間盛大な火花を上げて初号機が射出されていった。

「レイ、命令だ。
 シンジでは使徒を倒せん。
 槍を使って二人を助けろ」

穏やかに発せられたゲンドウの命令に、レイは小さく頷いた。
 
 
 

***
 
 
 

初めは記憶を暴こうとするものと守ろうとするもの、その両者の間でせめぎあいがあった。しかし、記憶の奥底に仕舞い込まれた記憶が次々に暴かれたことで、次第にアスカの心は使徒に対して抵抗する力を失っていった。そして今アスカの記憶の中では、幼いアスカの目の前で、母親が全身の穴という穴から体液を滴らせながら天井からぶら下がっていた。

アスカにとって、心の奥底にしまい込んだ幼い日の恐怖。それは今なお、彼女を苦しめている過去だった。しかし、それは今となっては心を壊すほどのものではなかった。彼女に取ってすでに過去の出来事であり、乗り越えなければならない事実として認識していたものであった。

しかし使徒の手は、彼女がさらに心の奥底に隠していた心を暴き出した。
 
 
 
 

『加持さんだったらOKの三連呼なのよ。キスだってその先だって』

夜のオーバーザレインボウの甲板で、胸をはだけて迫るアスカとそれを冷ややかな目で見つめる加持の姿がよみがえる。

「イヤッ」
 
 

『これはジェリコの壁、ちょっとでも超えてきたら死刑よ』

そう言いながら、まんじりともせず、シンジがふすまを開けてくるのを待っている自分。

「イヤッ」
 
 

『うぅえぇ〜っ、冗談でキスするもんじゃないわね』

洗面所で歯を食い縛っている自分。

「イヤッ」
 
 

『え〜っ、泊まって行かないの』

加持の腕にすがりつき、媚を売っている自分。

「イヤッ」
 
 

アスカにとっての本当の恐怖、固い鎧の下に隠してきた自分の心。加持に対しては必要以上に媚びることで、シンジに対しては暴力的な言動で精神的に優位に立つことでひた隠しにしてきた。

『一人で生きていく』

いつも自分に言い聞かせてきた言葉。そして自分は誰にも頼らず、一人で生きていけると思っていた。しかしそれは虚栄であることはすでに分かっていた。

シンジが、マンションを出たと伝えられたときに感じた喪失感。

『惣流さん』と呼ばれたときに感じた足下が崩れるような感覚。

加持から感じた微妙な距離感。

人と一緒にいる安らぎを知ってしまった彼女には、もう一人になることは耐えられなくなっていた。

「あたしを見て、あたしを一人にしないで、あたしを殺さないで。
 一人はいやなの、一人はいやなのよぉ!」

心の中でアスカは絶叫する。アスカにとっての本当の恐怖である“孤独”が彼女の心を蝕んでいく。

しかし、使徒はアスカの心を暴くことを止めなかった。アスカの目の前には二人の男女が絡み合う姿が映し出されていた。

『加持くぅん、もっとしようよぉ』

鼻に掛かった声で媚びを売るミサトと、それに答えてミサトに覆い被さっていく加持の姿。二人の荒い息づかいだけがあたりに響きわたる。

「加持さん、そんな女じゃなくてあたしを見てよ。
 あたしの方が若いし、綺麗なんだから。
 ねえ、加持さん私を見てよ、私にしてよ」

いくら叫んでも、目の前の二人にアスカの声が届くことはない。二人は荒い息をしながら、ひたすら体を重ね合わせていた。

「いやっ、いやぁあ〜」

アスカの絶叫とともに目の前の景色は切り替わる。そこにはレイと手をつないで歩くシンジの姿があった。

「何よ馬鹿シンジ、でれでれしちゃって。
 そんな人形女を相手にしないで、私のところへいらっしゃいよ。
 あたしにキスしたくせに」

まるでアスカの声が聞こえないように、二人はアスカの前を通り過ぎる。そして二人は古びた団地の中の一室へと入っていった。そしてその瞬間重なり合う二人の唇。うっとりと頬を染めるレイの姿がアスカの心を逆なでする。

「いやよ、いやよ...
 シンジ...なんだってさせてあげるから。
 ねえもっと凄いことをさせてあげるから...
 そんな女に触れないで。
 あたしを抱いても良いから...
 ほらあたしの方がスタイルだって良いのよ。
 みんなシンジの好きにして良いから...
 むちゃくちゃにして良いから...」

いつの間にか二人の前に立ったアスカは、声の限りに叫んでいた。しかし目の前では、シンジの手がレイのブラウスのボタンを外そうとしていた。すでにレイのスカートは足下へずり落ちている。

アスカは足もとの崩れ落ちていく感覚の中、目の前の光景を必死で否定しようとしていた。しかし、目の前では全裸になったレイをシンジが抱き上げている。レイの顔は幸福に輝き、その両手をシンジの首に回していた。

「何でアンタなのよ、何でアンタみたいなのが...」

殺風景なベッドの上で、レイの上にシンジは覆い被さっていた。シンジに貫かれ、喜びに浸っているレイの視線がアスカをとらえた。

その瞬間アスカは背筋が凍る思いがした。

レイはアスカを認めると急に真顔になり、自分の上で腰を振っているシンジの体をぎゅっと抱きしめた。そして、自分を見つめているアスカに勝ち誇ったような笑みを向けた。

そしてレイの口元がなにかの言葉を紡ぎだしたとき、本当にアスカは心の底から絶叫をあげ、気を失った。
 
 

レイの唇は、アスカのことを『用済み』と告げていた。
 
 
 
 

***
 
 
 
 

アスカが目覚めたのは、薄暗い病院のベッドの上だった。記憶の混濁により、アスカ自身何故自分がベッドの上で寝ているのか分からなかった。そして次第にはっきりとしてくる記憶の中、自分が使徒に負けたことを思い出した。自分が死んだ方がましだと叫んだことも。そのくせのうのうと此処に生きている。

「また...負けた...
 また...恥をさらしている...
 悔しい...」

「アスカ...」

てっきり自分一人だと思っていたアスカは、突然掛けられた言葉に焦りを感じた。自分の情けない独り言を聞かれてしまったと。アスカは薄暗い部屋の中を見渡し、声の人物の姿を追った。

「灯り、点けるぞ」

その聞き覚えのある声に、アスカは安堵した。他の誰でもなく、加持が自分の為に此処にいてくれたのだと。あの幻覚は思い違いなのだと思い込もうとした。

程なくして点いた灯りの元、アスカは加持が難しい顔をしているのに気が付いた。アスカにとって心当たりは嫌と言うほどある。独断専行、命令無視。戦いの場に出るものとして、してはならないことのオンパレード。アスカは、自分の行為に加持が困っているものだと考えた。

加持は、そんなアスカの思いには関係なく、松葉杖を使ってベッド脇の椅子に腰を掛けると、優しい声でアスカに語りかけた。

「無事で良かった。
 アスカが、死んだほうがましと大声で叫んだときにはぎょっとしたぞ」

「…ごめんなさい」

「謝ることはないさ。
 アスカが、それだけ真剣にエヴァに乗っているということだからな。
 よく頑張ったな、よく生きて帰ってきた」

「でも...」

「戦いのことは気にする必要はない。
 たまたま今回は負けただけだ。
 やり直しの機会は必ず有る」

「でも...あたしはもうエヴァには乗れない」

「どうしてそう思う?」

「独断専行、命令無視。
 そのくせ使徒にやられてこんな所で寝ている...
 そんなパイロットはお払い箱よ」

加持はアスカの言葉にふっと息を吐いた。アスカにとって、チルドレンの座が如何に大きいか加持はよく理解していた。だからアスカが恐れていることは、加持に取って予想の範囲のことだった。

「此処に来る前に、碇司令から命令を貰ってきた。
 本部内にて一週間の謹慎だそうだ。
 残念ながら週末のショッピングはお預けだな」

加持の言葉にアスカは一瞬呆けた顔をした。確かにそれは無理もないことだ。アスカは今回の件で、資格剥奪を覚悟していたのだ。いや、これまでのネルフなら間違いなくそうなっていたとアスカは考えていた。

「不思議そうな顔をしているな。
 これは別に温情というわけじゃない。
 二人しか居ないエヴァのパイロットに、重い罰を与えるわけにはいかないじゃないか。
 そう言った政治的判断だよ」

実のところは、罰にすらなっていないことを加持は知っていた。これからの少女のことを考えたら、この罰は意味をなさないのであろう。

しかし、資格を剥奪されなかったことで思考の停止していたアスカは、加持の言葉に含まれていた微妙なニュアンスに気づくことは無かった。

「私は弐号機に乗れるの?」

頷いた加持に、アスカは破顔した。その心からの笑顔に、加持はアスカの抱えていた苦悩の深さを思いやった。

「ああ、アスカにその気さえあればな」

「もちろんよ、今度こそは活躍してみせるわ...」

そう言って、ふと思い出したようにアスカは声を上げた。

「そう言えば使徒はどうなったのよ。
 またシンジが倒したの?」

「いや、使徒を倒したのはレイちゃんだ。
 シンジ君は待機命令を無視して、アスカを守るために出撃した」

意外な言葉に、アスカはにわかには信じられなかった。此処しばらくのシンジの冷たい態度からは信じられない話だった。

「そんなの嘘よ!
 あたしの為にあいつがそんなまねをするわけが無いじゃない」

声を震わせるアスカに、加持は小さくため息を吐いた。

「なぜ、そう思うんだい。
 俺がアスカに嘘を吐かなくちゃいけない理由は無いぞ」

激昂しかけていたアスカも、加持の言葉にその心を静めるしか無かった。加持の言ったことはすぐに確証のとれることだ。そんなことで、加持が嘘を付かなくてはならない理由はない。

「ごめんなさい加持さん」

そんなことは良いんだと、加持はアスカの頭を撫でた。その優しさが心地よく、アスカは目を閉じ身を任せた。

「シンジ君は命令違反をしてアスカを助けに出た。
 それは疑いようのない真実だ。
 シンジ君が何を思って出たのか、それはアスカ自身が確かめて欲しい。
 もちろん確かめないこともアスカの自由だ。
 しかし俺はアスカに、シンジ君の気持ちを知っておいて欲しい」

「シンジの気持ちを...」

「そうだ、アスカ自身疑問に思っていたんだろう。
 何がシンジ君に起こったのか。
 どうしてシンジ君が変わってしまったのか」

「加持さんは理由を知っているの」

「ああ、かなり前からな」

「じゃあ、どうして教えてくれなかったの」

「それは俺のすべきことじゃないからな。
 シンジ君とアスカ、二人が乗り越えなくちゃいけないことなんだよ」

「あたし達二人が...」

加持の言葉にアスカは考え込んだ。自分とシンジの関係...それはいったい何だったのだろうかと。

「どうだい、碇シンジ君は」

懐かしい問いかけ。オーバーザレインボウでは『冴えない子』とアスカは返した。しかし今はどうだろうとアスカは考えた。自分はシンジに何を求めていたのだろうかと。その時アスカの心の中に、使徒によって暴き出された心がよみがえってきた。『あたし...見て欲しかったんだ...抱きしめて欲しかったんだ...』何故自分がこんなにいらついていたのか。その理由が今はっきりと分かった。

「鈍感、莫迦!」

その言葉を言った、アスカの表情は晴れやかなものに変わっていた。

「ならアスカはどうするんだい」

加持の柔らかな問いかけ。

「アスカは何を望むんだい」

「あたしは...」

気持ちは決まっている。ただそれは言葉としてアスカの口から出てこなかった。

「あたしは...」

あふれ出る沢山の思い。それは言葉の形を取り得なかった。

「無理して言葉にする必要はないよ。
 それにアスカの気持ちを聞くのは俺の役目じゃないだろ」

加持はそう言うと、ベッド脇からガウンを取り上げた。

「行っていいの?」

「許可は貰ってある」

アスカは、ガウンと加持の間で何度も視線を往復させた。そして一つの決意とともに、加持からガウンを受け取った。

「ありがとう、加持さん」

ガウンを羽織ると、アスカは勢いよく病室を飛び出していった。その姿を見送り、加持は小さく呟いた。

「後はあの二人...いや、三人次第か」

しかし事態は、加持の予測よりも過酷な方向へと移っていこうとしていた。
 
 
 
 

続く
 


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中昭のコメント(感想として・・・)

  かげろう 第七話。トータスさんから頂きました。


  >すでに勝負の相手は使徒ではない。そんなアスカ自身の思いが、自分を追いつめていた。
  煮詰まってますです。

  >人と一緒にいる安らぎを知ってしまった彼女には、もう一人になることは耐えられなくなっていた。
  一番ショックだったのは、昔の母の死ではなく、孤独な今の自分に気が付く事でしたか。
  なるほど。

  >レイの唇は、アスカのことを『用済み』と告げていた。
  はうぅううう
  一人目レイちゃんと、ナオコさんな関係になるんじゃろうか。

  >自分はシンジに何を求めていたのだろうかと。
  >『あたし...見て欲しかったんだ...抱きしめて欲しかったんだ...』
  >「鈍感、莫迦!」
  上昇気流にのったアスカ。
  シンジの方は気持ちの整理ができてない様子。
  果たしてどうなるんでありましょうか
  次回が楽しみです





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