か・げ・ろ・う

第八話 天使の狂宴(後)
 
 
 
 
 
 
 

シンジは自分の右手を包み込む暖かな感触に、夢の中で見た母を思いだしていた。これまで暖かい感触は思い出すことは出来たのだが、肝心な母の顔を思い出すことは出来ないでいた。ぼやけていた顔がはっきりしてきて、後少しと言うところでいつも目が覚めてしまう。今日もそうなのかと思ったとき、急に暗がりの中で視界がはっきりしてきた。軽い失望の中、先ほどまで母親だと思っていた影の正体を知った。

「綾波...綾波なのか」

レイはコクリと頷き、シンジの問いに答えた。

「いつも...そうだね...
 僕がこうして目を覚ますとき...いつも綾波が側にいてくれる。
 ねえ、どうして...命令だから」

「…ちがうわ」

「なら...どうして」

「…分からない」

シンジは、少しがっかりとしている自分の姿に苦笑した。いったい自分はレイに何を言わせようとしたのだろうかと。

「使徒は...綾波が倒してくれたんだよね。
 ありがとう、大きなことを言っていた割に僕はなんにも出来なかったね」

「槍を使えば誰にでも出来たことよ。
 それよりも何故碇君は黙っていたの」

シンジにはレイの質問の意味が分からなかった。黙っていた?なんのことだろうと。

「…何故あの人と私に碇君のことを黙っていたの」

ようやくシンジはレイの言うことを理解した。誰かが...父さんか母さんが話したのか。シンジはそう想像した。

「聞いたんだ...僕のこと...誰に?」

「…碇司令」

「そう...父さんに」

「…どうして黙っていたの」

レイの言葉に、シンジはレイから顔を背け、天井を見つめた。

「…怖かったんだ。
 そのことが本当のことだと分かることが。
 綾波やアスカが知らないことで、自分で夢だと思いこもうとしていたんだ。
 夢さえ覚めれば元のからだに戻っているって。
 そんな都合のいい話が有る分けないのにね」

「…嘘」

「嘘じゃ...綾波にはお見通しか」

シンジは大きな声を出しかけて思いとどまった。そんなことをしても意味のないことに気が付いた。

「うぬぼれなんだよね。
 僕の存在が綾波やアスカに大きいはずだって。
 助からないって分かったとき、二人の顔が浮かんだんだ。
 はは、おかしいよね。
 僕の存在じゃなくて、綾波とアスカの存在が僕にとって大きかったんだ。
 でもそれが分かってしまったから僕は決意するしかなかった。
 どんなことがあっても二人を守ろうって。
 使徒は僕が全部倒すって。
 残る使徒は後3体。
 だったらそれまでは僕の体も保つんじゃないかって。
 だから二人には危ないまねをして欲しくなかった。
 エヴァで死ぬのは僕一人で良いから。
 でも空回りだね。
 結局使徒は綾波が倒したし、アスカを傷つけてしまった。
 やっぱり僕は何をやってもだめなんだよ」

自嘲気味に呟くシンジを、レイは黙って見つめていた。そして赤木リツコに言われた言葉を思い出していた。

『次はもう無い』

「でも思うんだ...こんな目に遭ったのが僕で良かったって。
 だって僕は誰にも必要とされていなかった。
 誰にも愛されていなかった。
 死ぬのが僕で良かっ」

シンジは全部を言うことは出来なかった。シンジの言葉が終わる前に、レイの右手がシンジの頬を捉えていた。

「…あなたはみんなに必要とされているわ。
 …みんなに愛されているわ。
 碇司令にも赤木博士にも...あなたは愛されている。
 どうしてそれが信じられないの」

レイの指摘は、シンジの心を爆発させる。シンジは心のすべてを吐き出すように大声を上げた。

「信じたいよ...でも出来ないんだ。
 怖いんだよ、愛されていると思うことが。
 初めてなんだよ、みんなが大切にしてくれる、優しくしてくれる、愛してくれるのは。
 気持ちいいんだよ...でも、だからこそ怖いんだよ。
 せっかく...生まれて初めてこんな気分になったのに...
 それが全部消えてしまうのが...
 だったらそんなもの知らなかった方がいい。
 そんな幸せを感じない方がいい。
 自分を騙したままの方がいいじゃないか。
 そうすれば死ぬことで失うものもなくなるんだから。
 そのどこがいけないんだよ」

レイにはシンジが心から慟哭しているのが感じられた。しかし、こういったときに掛ける言葉を彼女は持っていなかった。だからレイは、自分の気持ちを行動で表した。俯いて喋っているシンジの頭を、レイは優しく抱き留めた。
 

ふわり
 

シンジは、自分の頭が暖かく包まれた感触に我に返った。そして次に感じたのは、レイの胸の柔らかな感触だった。シンジは自分の体勢に気づき、あわてて体を離そうとした。しかし、シンジを抱き留めたレイの腕はそれを許さなかった。腕の中の大切なものを守るように、シンジを慈しむように、レイはシンジを抱きしめた。その優しさに、波立っていたシンジの心も次第に落ち着きを取り戻していった。

「綾波...」

「…ごめんなさい。
 私にはこうすることしかできないから」

こんなに自分のことを思ってくれる少女を困らせていた。二人のためと言いながら、結局自分のことしか見ていなかったのだとシンジは気づかされた。

「ごめん」

「謝ることはないわ。
 謝らなければいけないのは私のほう。
 碇君の苦しみを分かってあげられなかった」

シンジは少女の優しさを今更ながら思い知らされた。しばらく時が止まったように、二人は動かなくなった。部屋にある時計だけが単調な音を響かせている。そんな中、お互いの思いを確かめるように二人は抱き合っていた。

「…僕は間違っていたんだよね」

しばらくして、シンジはぽつりと口を開いた。先ほどまでの激情は過ぎ去り、シンジの顔は穏やかな物に変っていた。

「…どうしてそう思うの」

「綾波にこうして貰うと心が落ち着くから。
 さっきはあんなことを言ったけど、ずっと怖かったんだ。
 いくら強がってみたってだめだったんだ。
 夜になって一人になると怖くて堪らないんだ。
 このまま目をつぶってしまったら、もう起きられないんじゃないかって。
 そのくせ朝が来るのも辛かったんだ」

「…そう」

再び二人は黙り込んだ。ただ静かな時間だけが二人の上を通りすぎて行った。
 
 

***




アスカがシンジの病室にたどり着いたとき、病室の中から怒鳴るような大声が聞こえてきた。何事が起きたのかと覗き込んだアスカは、飛び込んできた光景に体が硬直するのを感じた。目の前で二人が抱擁しているのだ。その姿はアスカに使徒によってみせられた光景を思い出させた。

「いやっ」

慈母のように微笑むレイの顔も、アスカからは妖艶な微笑みに見える。抱き会う二人の姿が、精神攻撃で見せられた、まぐわう二人の姿に重なってくる。

「やめて」

再びアスカの心がきしみ出す。

恍惚としたレイの顔が、アスカの脳裏に浮かぶ。その姿がまたアスカの心を苛んで行く。

「やめて」

現実と虚構が入り乱れていく。使徒の攻撃と現実の世界の狭間でアスカの心が揺れ動く。ゆっくりと、そして確実にアスカの心は崩壊に向かおうとしていた。

しかしアスカの心がそのまま崩壊に向かうことはなかった。ただそれを幸せな事というには、あまりにも現実は残酷だった。アスカの心を繋ぎ止めたのは、病室から聞こえてきた獣の吠えるような声だった。

その声に現実に引き戻されたアスカは、すぐさま病室へ飛び込んでいった。そして頭を抱えて床の上を転げまわるシンジの姿と、それを取り押えようと必死にシンジにすがりついているレイの姿を目の当たりにした。何が?と考える前にアスカの体は動いていた。
 
 
 
 

レイにとっての静かな時間は、シンジの絶叫とともに破られた。自分の胸の中に居たシンジが、いきなり大声を上げて自分をつき飛ばして床の上でもだえ出したのだ。そのさまに一瞬呆然としたレイだったが、直にシンジの症状を思い出し、慌ててその体を押さえつけようとした。このままではシンジの体が傷ついてしまうと彼女は考えた。

しかし苦痛にのたうつシンジの力は強く、レイ一人では到底押えることはできなかった。それでも異変を見つけて医療班が駆けつけるまで、なんとかしたい。レイは必死でシンジの体にすがりついた。しかし、体を壊すかのように暴れるシンジは、すがりついているレイの体をも傷つけて行った。

シンジの力に振り落とされそうになったとき、レイは赤い色が目の前に広がるのを見た。そして次の瞬間、それが自分のよく知っている人物であることに気がついた。

「あなた...なぜ」

「ファースト、話は後。
 今は全力でシンジを押えて」

限界を超えて暴れるシンジは、二人掛かりでも押さえつけるのは困難だった。それでも必死になって二人はシンジの体にすがりついた。その間にもシンジの口からは血をはくような悲鳴が吐き出されていく。医師が駆けつけてくるまでの間、その永遠とも思える時間の中、二人の少女はただ目の前の少年のことだけを考えていた。ただその心の中の思いは違っていたが。

ようやく医師達が駆けつけたことで、シンジの苦痛も終わりを告げた。屈強な男達にとり押えられたシンジは、首筋に射たれた注射によって激痛から開放されたように眠りに落ちて行った。しかしその顔には先程までの苦痛の大きさを示すように、いくつもの傷が刻み込まれ、多くの髪も抜け落ちていた。そして残された髪もその色を白く変えていた。

シンジのあまりの変わり様に呆然としていたアスカだったが、医師と一緒に駆けつけたリツコが何やら医師に指示を出していることで自分を取り戻した。『発作間隔』とか『副作用の考慮は要らない』といった言葉が漏れ聞こえてくる。事態の異常さと深刻さに気がついたアスカは、指示を終えて出て行こうとするリツコを捕まえた。

「どういうことなのよ、精神汚染じゃないわよねこれは。
 何があったのか説明してくれない」

シンジを取り押さえるときに乱れた着衣も気にせず問いつめてくるアスカに、リツコは自分の部屋に着いてくるように言った。
 
 

***




リツコの部屋に行こうとしたアスカの後ろをレイが着いてきた。先程の病室で抱き会う二人の姿を思い出したアスカは、レイに一言言おうと思ったが、切り出す言葉が思い浮かばず、そのまま黙ってリツコに着いて彼女の部屋へと向かった。

部屋に入って、リツコは二人にコーヒーを勧めたが、そんなことより早く説明しろというアスカの言葉に、自分の分のコーヒーだけ入れて椅子へと腰掛けた。そしておもむろに端末を叩いて一つの画面を二人へと示した。

「レイはどこまで知ってるの」

説明の前に、リツコはレイがどこまで知っているのかを尋ねた。

「エヴァに乗ると成長する腫瘍のせいで、碇君の命が危ないと言うぐらいです」

えっと腰を浮かせたアスカを無視しリツコは新しい画面を開いた。

「じゃあ二人には最初から話すわ。
 まずこの画面を見てちょうだい」

示された先には、一部が赤くマーキングされた人の脳のCT画像が映し出されていた。

「これが第壱拾弐使徒の後、シンジ君の精密検査を行ったときのCT画像。
 赤くなっているところが問題の場所。
 この頃は針で突いたような大きさしかなかったわ」

「そしてこれがその後のシンクロテスト後の画像。
 先程に比べて10%大きくなっている」

続けて表示されて行く画像は、次第に赤い領域が拡大していっている。

「この時私は碇司令に進言したわ。
 このままシンジ君をエヴァに乗せ続けると致命的なことになると。
 その結果選出されたのがフォースチルドレン。
 彼は最初搭乗を渋っていたけど、シンジ君のことを話して乗ってもらった」

今度こそ腰を浮かせたアスカをリツコは押し止めた。

「でも結果は散々だったわ。
 知っての通り参号機は使徒にのっとられ、フォースチルドレンは重傷。
 シンジ君は心に大きな傷を負った」

ディスプレーに新しい画像が表示される。今度は明らかに赤い領域が拡大していた。

「一気に大きさが倍になったわ。
 このため碇司令はシンジ君の登録抹消を決断した。
 二度とエヴァに乗せようと思わないように、誰にも邪魔をされないように。
 司令は碇シンジと言う子供の存在まで消し去ることにした。
 そのためシンジ君を死んだことにして、加持の保護した女の子の所へ行かせようとした」

アスカは記憶の中に居る少女の名前をつぶやいた。彼女が生きていたことは、アスカにとって予想外の出来事だった。

リツコはアスカに向かって肯くと、更に説明を続けた。

「第壱拾四使徒に弐号機が破れたとき、シンジ君はネルフに戻る決意をした。
 自分がなぜ降ろされたのかの理由を知った上で。
 元々シンジ君はエヴァを降りるつもりはなかったの。
 でも命令には逆らえなかった」

アスカは壮絶な初号機の戦いを思い出した。あの勇猛な戦いの裏にはこんなことがあったのかと。

「やはり腫瘍は大きく成長していた。
 そしてシンジ君にも自覚症状が現れ出した。
 視覚神経と運動の伝達にね。
 シンジ君の目には物が二重に映り、手探りでないと物を掴めなくなっていたわ。
 だからミサトの家を出るしかなかった」

「なぜ教えてくれなかったの!」

淡々と語るリツコに、一人蚊帳の外に置かれていたと思ったアスカは大声を上げた。

「あなたはまともに話を聞ける状態じゃなかったわ」

あらかじめ予想できたことのように、リツコは淡々と言葉をつなげた。

「それに、あなたたち二人には伝えて欲しくないと言うのがシンジ君の希望なの。
 私たちはシンジ君の意志を尊重したわ」

二人と言う言葉に、アスカは隣に座っているレイの顔を見た。黙って前を見つめていたレイだったが、アスカの視線に気付くと小さく肯いた。

「どうして...シンジは」

私たちに教えたいと思わなかったのか...そう聞きかけてアスカはそれが馬鹿な質問であることに気がついた。自分でも、大切な人に知られたくないと考えるだろう。

そこまで考えてアスカははっとした。シンジにとって自分は大切な人なのだろうかと。

「シンジ君が、二人のことをどう考えているのかは私が言うことじゃないわ。
 でもこの日から、シンジ君のシンクロテストは二度と行われることはなかった。
 あなたたちと一緒にプラグに入っても、ダミーのデータを流しただけ。
 本当なら二度とエヴァには乗せたくなかった。
 でも碇司令はシンジ君の意志を尊重することにした。
 そして彼はエヴァに乗ることを選らんだの」

「本当は今度の作戦でも出撃の予定はなかった。
 でもシンジ君は自らの危険を省みず初号機で出たわ。
 命令違反をしてまでもね。
 まあ碇司令はそうすることを望んでいるようだったけどね」

「先程の碇君の症状は?」

リツコの言葉に考え込んだアスカの替りにレイが質問をした。

「アスカが言った通り精神汚染じゃないわ。
 腫瘍が大きくなって痛覚を刺激しているの。
 治療はできない。
 今は痛みを押えてあげるのが精一杯よ。
 多分これからも周期的に激痛が襲ってくるわ」

「何とかしてあげられないのですか」

リツコは例の質問に悲しげに首を横に振った。
 
 

***




「アスカ、ごめんなさい」

すべての説明が終わり、リツコの部屋から出て行こうとしたアスカを捕まえてリツコは謝った。

「もういいわよ。
 シンジが黙っていろって言ったんでしょう。
 リツコのせいじゃないわ」

リツコは違うと首を横に振った。

「あなたのことをシンジ君に話したの。
 小さいときからのあなたのことを」

「理由を教えてくれる」

その言葉にアスカは驚きの色を隠せなかった。しかしそのことでリツコを責めるようなことをアスカはしなかった。

「シンジ君を苦しみから救ってあげるため。
 彼にとって一番の心労はあなたとのことだったから。
 あなたにどう接して良いのか、それが分からなかったの」

「私がシンジを苦しめていた...?」

「シンジ君にとって、あなたは理想の存在だったのよ。
 才能に恵まれ、すべてに前向きに生きている。
 彼にとってあなたは太陽のような存在だった」

「...あたしはそんなに立派な物じゃない...」

アスカの言葉を否定も肯定もせず、リツコは言葉を続けた。

「だからシンジ君は、今のあなたにどう接して良いのか分からなかった。
 シンジ君のことだから『自分は嫌われている』とでも思っていたのでしょうね。
 だからこのまま嫌われたまま終わろうって考えたのでしょうね。
 でも、あなたはどんどんおかしくなっていった」

言いにくそうに言うリツコに、アスカは「気にしないで」と先を促した。

「レイのことも同じ、シンジ君は二人に嫌われることを選んだ。
 それが彼なりの思いやりだった」

「そんなの勝手な思いこみよ」

「そうよ、勝手な思いこみ。
 でもあなたにそれが言えるの?
 少し前のあなた達の関係は良いとは言えなかったわ。
 あなたにも心当たりがあるでしょう」

同居しているシンジに対して当たり散らしていたこと。アスカはそのことを思い出した。アスカにも言いたいことはたくさん有る。しかし冷静な目で見れば、嫌われていると思われても仕方のない行動だった。

「そのことであなたを責めようとは思わない。
 人の心はロジックじゃないものね。
 話を戻すわね。
 でもシンジ君の判断は決していい結果を生まなかった。
 特にあなたにとってはね。
 あなたは否定するかも知れないけど、私たちの目から見れば明白だった。
 だから私たちはシンジ君の背中を押すことにした」

「そのために私の過去を教えたと...」

「レイについてもね。
 半分賭みたいなものだった。
 今度の使徒のせいで、効果があったのかどうかは結局分からずじまい。
 あなた達の過去なんか関係なかったみたいね。
 シンジ君のあなたへの思いの強さは」

思いの強さ...それはいったいどういう感情なのだろうか。アスカはそう考えない訳にはいかなかった。シンジが自分に対して恋愛感情を抱いているとは考えにくかった。キスこそしたが、自分はことある毎にシンジに対して辛く当たってきた。そんな相手に恋愛感情を抱くだろうか。むしろシンジが恋愛感情を抱くとしたらレイに対してであろう。アスカの目から見た二人のつながりは大きな物だった。お互いが意識し合っているのは見え見えだったのである。だから自分は心の底で二人に嫉妬していたのか...

そこまで考えてアスカははっとした。自分は二人に嫉妬をしていた...つまり自分はシンジに対して恋愛感情を持っていたのかと。そんなはずはない。アスカは直ちに否定を試みた。碇シンジの悪いところなどいくつも思いつく。後ろ向き、内罰的、引っ込み思案...運動も勉強もだめ...そう言ってだめなところを上げていくうちに、アスカはあることに気が付いた。自分がこんなに欠点を上げられる相手はシンジだけなのだと。加持だってたくさんの欠点があるはずだ。しかしそれを自分は言うことはできない。自分は、加持リョウジが見せる表面的な所しか見ていないことにアスカは気が付いた。

自分は碇シンジと多くの時間をともにし、そして一番彼のことを見つづけていたのだ。そしてそのシンジが自分のもとから居なくなったときに、大きな喪失感を感じていた。その意味する所はなんだろうか...しかし、それ以上を考えることをアスカは止めることにした。それは自分の気持ちを知ることが恐かったのではなく、それを確かめることが無意味であるのに気が付いたのだ。シンジとファーストはうまくいっている。ならば今更自分が間に入って行ってなんの意味があるのだろう。和解をすれば、自分がもとの姿をとり戻せば...この喪失感は自分でなんとかすればいいのだ。そうすればシンジにこれ以上の心労を掛けることはない。今彼が直面している問題から比べれば、自分の心にあいた穴などたいした物ではないのだと。

「あなたには何も強制しない。
 あなたは思った通りに生きれば良いの」

黙ってしまったアスカに、リツコはそう声を掛けた。

「ただ...あなたには立ち直って欲しいと思っている。
 勝手な言いぐさだけど、それが私と碇司令の考え。
 ひどい言い方だけど、私たちにとってはあなたは単なるパイロット。
 駒に過ぎない。
 確かに現時点でエヴァに乗れると言う資質は貴重だけど、それ以上の物ではないわ。
 そのことを恨んでもらってもかまわないけど...」

「分かってる...私は私だもの。
 私の人生を決めるのは私。
 ほかの誰でもないわ。
 パイロットは駒...当然よ。
 そうでなければ戦いは行えないわ。
 それぐらい私は理解しているわ。
 ただ私は雑兵になるつもりだけはない。
 戦いの鍵を握る駒になりたいと思っている。
 それだけのことよ。
 でも一つだけ、リツコにお願いがあるの...」

アスカはそう言うと、自分を覗き込んでいるリツコを見つめ返した。

「シンジとファースト...ううん、レイのことをお願い...
 私は自分で何とかしてみせる。
 それが私、惣流アスカ・ラングレーだから。
 そしてもう一つ、重要な相談があるの...」

誰に聞かれている訳ではないが、アスカはリツコの耳もとで小さくささやいた。
 
 


***





レイはリツコのもとを出た後、再びシンジの病室に戻っていた。その手にはリツコから托された痛み止のアンプルと、ハンドガン式の注射器を持って。そしてもう一つ、いざと言うとき、レイの手でシンジを苦痛から解放するための薬も一緒に。レイはその薬を見つめながら、リツコが自分に言った言葉を思い出していた。

『レイ、これは命令ではないわ。
 私のお願い。
 だからレイがいやなのなら、拒否しても良いわ。
 お願いレイ、シンジに付いていてあげて。
 定期的に痛み止を注射してくれれば良いわ。
 そしてもしものときは...』

レイはベッドに横たわるシンジを見つめて考えた。

「赤木博士は命令ではないと言った。
 でも、私はそれを了承した。
 いえ、その役目を誰にも渡したくなかった。
 …この気持ちは何?
 私の価値はそんなことに無いのに...
 …この胸の痛みは何?
 …この胸の高鳴りは何?
 赤木博士は、碇君は私のことを知っていると言った。
 私はここに居てもいいの?
 碇君は私を受け入れてくれるの?
 あの人じゃなくていいの?
 …分からない
 碇君なら答えをくれるの...」

レイの目の前で、シンジは静かに眠りについている。先程暴れたのは嘘のように穏やかな顔をして。それだけを見ていれば、先程の出来事は夢の中のことのように思えてくる。しかし、それが夢でないのはシンジの頭にまかれた包帯が物語っていた。

「…私の願いは消え去ること...
 でも...今は違う...
 今は...
 いかりくん...」

レイはそっとシンジに頬を寄せた...
 
 
 

続く
 


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中昭のコメント(感想として・・・)

  かげろう 第八話。トータスさんから頂きました。


  >せっかく...生まれて初めてこんな気分になったのに...
  >それが全部消えてしまうのが...
  >だったらそんなもの知らなかった方がいい。
  >そうすれば死ぬことで失うものもなくなるんだから。
  うみゃぁーん。なんだか泣けてきます。
  失うモノが無い方が幸せ・・・・納得できるようなしたくないような・・・

  >自分でも、大切な人に知られたくないと考えるだろう。
  >そこまで考えてアスカははっとした。シンジにとって自分は大切な人なのだろうかと。
  うむぅ。
  すれ違ってますですねぇ。
  シンジにしても”アスカだけが大切だ”って事を見せてるわけじゃないから仕方がないかな。
  ”みんな大切な人なんだ”と言われてアスカが納得するかどうかもポイントかしら。

  >自分は、加持リョウジが見せる表面的な所しか見ていないことにアスカは気が付いた。
  一番よく見てる異性。
  それでも諦めてしまうのでしょうか。
  喪失感は埋められるのかな。

  ますますヒートアップ。
  次回が楽しみです





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