か・げ・ろ・う

第九話 刻
 
 
 
 

あの日以来、アスカのシンクロ率は何とか持ち直す傾向を見せていた。それが彼女にとっての最後の意地であったのかも知れない。少なくとも、アスカの瞳からは不安に揺れる陰は消え失せていた。それどころか、何か目標を見つけたかのように、鋭い光が彼女の瞳に宿るようになっていた。

「私は負けるわけにはいかない...」

かつて失意のどん底に居たとき同じ言葉が、アスカの口から吐かれた。しかし、今アスカが口にしている言葉は、その時とは中に含んでいる意味は大きく違っていた。彼女はその言葉を、誰も見舞いの者が居なくなったシンジの病室で呟いていた。

「シンジ...あんたを死なせはしない...」

彼女はそれを毎日のように繰り返すのだった。

一方レイはと言うと、一日中シンジの横についているのが彼女の仕事となっていた。彼女がシンジの横を離れるのは、シンクロテストを受けるときと、夜のシャワーを浴びるときだけと言う徹底ぶりだった。そのシャワーだが、レイは毎日夜になると決まった時間に病室を空けシャワーを浴びるようにしていた。それはアスカに対しての思いやりであったのかも知れない。夜になってレイが病室を空ける時間、その時間を狙ってアスカはシンジの病室を訪れていた。

シンジの病室にベッドを持ち込み、レイはそこで生活をするようになっていた。シンジが起きている間は、彼の食事の世話から話し相手まで、人との関わりを避けてきた彼女にとって、それは大変な努力ではないかと思われることをこなしていた。そしてシンジが眠りについたときは、日課の読書を辞め、じっとシンジの顔を見つめることが彼女の生活となっていた。

普段は制服しか着ていなかったレイであったが、少しでもシンジの気が晴れるようにと、シンジの前では制服以外の服も着るようになっていた。シンジは、そのレイの変化を好ましく思うのと同時に、その中にアスカの服が有ることから、アスカとレイの関係も好転しているのだと気がついた。照れたようなはにかんだような表情で洋服を渡しているアスカの姿が想像され、少し心が温かくなるのをシンジは感じていた。

もっともシンジ自身、寝たきりでなければいけない理由は無い。そのため、日中はある程度自由に歩き回ることは出来た。また食事に対する制限もない事も相まって、昼間はレイを連れて本部の中をうろつき、食堂で食事をするのが彼の日課となった。デートと呼ぶにはいささか無粋な場所ではあるのだが、たまたま出くわしたアスカには“デート”と言われてからかわれたりもした。

にやにやと笑って自分たちをからかうアスカと、それに頬を染めて恥じらうレイの姿。それはシンジにとって、初めて訪れた心休まる時であった。

そんなときである、彼女達の元に新しいチルドレン選定の知らせが舞い込んできた。その知らせをアスカは複雑な気持ちで受け止めていた。

表向きの理由は退場したサードチルドレンの後がまである。しかし、レイですら動かなくなった初号機を他のチルドレンが動かせるとは考えられない。そうなると唯一の量産型である弐号機が新しいチルドレンの受け皿となることもあり得るのだ。以前のアスカであれば、決して受け入れることは出来ないことだった。しかし、今ではアスカもその可能性を冷静に考えることが出来るようになっていた。アスカ自身、自分がその事実にたどり着いたとき、思ったほどの喪失感を抱いていない事に驚きを感じていた。そして自分自身の中に生まれた目標がどれだけ大きいのかを思い知らされた。

「まあいっか」

見る人が見たら、アスカの肩から力が抜けているのが分かっただろう。彼女は、自分自身を縛り付けていたエヴァの呪縛から解き放たれようとしていた。
 
 
 
 

一方大人達はそうは簡単にはいかなかった。何しろサードチルドレンのリタイアが明らかになったとたん、委員会から直にチルドレンが送られてきたのである。背後に何も無いと考えろと言うのは無理なことであった。しかし、ネルフの上位に位置する委員会の指示である。ネルフとしては表だってそれに反対することも出来なかった。彼らは渋々でも5番目のチルドレンを受け入れざるを得なかったのである。

そして5番目のチルドレンがネルフに到着したとき、その特徴のある容姿から首脳陣はレイとの共通点を思わないわけにはいかなかった。そしてその意味するところにも。ネルフ内部はさらなる緊張感に包まれていた。
 
 


***





シンクロテストでは、フィフスチルドレンはシンジのプラグを用いて実験を行っていた。その姿をレイは何の感慨もなく、アスカの方は寂しそうな瞳で見つめているだけだった。

シンクロテストの終わった実験室にミサトはリツコとともに残っていた。レイの姿はテスト終了と同時に消え失せ、アスカもまたやることが有ると言って早々に退去していた。そして肝心の5番目のチルドレン=フィフスチルドレンもまた、ここにいても意味がないとばかり、本部の中を見学すると言って2人の元を辞していた。

心配されていたアスカのシンクロ率も順調に回復を見せた。以前の通りとはいかないが、それでも十分に良い値を示すようになってきていた。一方予想通りとでも言うのか、フィフスチルドレンは初号機とシンクロすることはできなかった。しかしその事実を前にしても、彼は動じることなく『まあ、初号機は特殊ですからね』とすべてを承知して居るかのような言動を残してテスト場を去っていった。

テストの結果をまとめているリツコの元をミサトは訪れ、気になっていたテストの結果を訪ねた。

「委員会直属のエリート君の調子はどうなの」

「結果だけから言えば最低。
 シンクロメータはぴくりとも動かなかったわ」

ミサトはリツコの言葉に含まれていた曖昧さに気がついた。自分の親友がそう言うことを言うとき、必ずその裏に何かが潜んでいるのだ。

「結果だけって、ほかに何かあるの」

「どうも腑に落ちないのよ。
 彼は自分が全く初号機とシンクロしないことを気にしていないのよ。
 しかもそれがさも当たり前のような発言をしている。
 どういうことだと思う?ミサト」

「どうって言われてもね...」

そこに大きな意味があるのだろうかと、ミサトは考えた。単に負け惜しみではないのか。それともチルドレンとしてではなく、ほかの目的を持ってネルフに送られてきたのではないのかと。多分後者が可能性が高いだろうとミサトは考えた。

「単なる負け惜しみじゃない?
 それともほかの目的を持ってネルフに来たとか」

「ほかの目的って?」

「簡単に言えば監視ね。
 今のネルフが勝手な行動をしていないかというね。
 あなたにも思い当たるところは沢山あるでしょう」

リツコの言葉に、ミサトは『まあね』と同意した。シンジの事を含め、かなり委員会には秘密にしてきたことが彼女達には有った。それ以上に、幹部クラスでは『人類補完計画』の破棄までもが話し合われていたのだ。

「でも、彼の身分は一介のパイロットでしょ。
 その身分で監視役が務まるとは思えないわ。
 それに行動にもおかしな点は見受けられないわよ」

「確かにね。
 でもそうでないとすると、全く意味が分からないのよ」

「まあ、頭から決めつけると大切なことを見逃す可能性が有るわね。
 当面、彼に注意を払うと言うことで良いんじゃない」

それもそうだと、リツコはミサトの言葉に同意した。
 
 


***





シンクロテストの有無に関わらず、アスカは学校に行くことを止めていた。それは学校に行くことに対して嫌気が差したわけでなく、それ以上にやりたいことが出来たことが原因だった。

「中学に行くのを止める」

アスカがそう言いだしたとき、ミサトはすぐさま反対をしようとした。しかしアスカの真意を聞きかされ、ミサトはすでに諦めを感じていた自分を恥じると同時に、アスカと言う人間の強さを感じた。

「アスカ...強いのね」

そのミサトの言葉を、少し悲しげな表情でアスカは否定した。

「強くなんか無いわよ。
 でもね、今度こそ私は負けるわけにはいかないの。
 ここで負けてしまったら...
 私は一生自分が許せなくなる。
 だって恥ずかしいじゃない。
 シンジがあんなに頑張っているのに。
 こんな可愛くない子のために命まで張ってくれているのよ。
 だったら私は自分に出来ることをしないといけないじゃない」

ああ、この子も変わったのだ。目の前できっぱりと言い切るアスカを見て、ミサトはそう思った。それはとてもいい変化なのだとミサトは確信した。

『ねえアスカ...シンジ君のことを好き?』

ミサトはそう聞いてみたい気がしていた。しかしそれを口にするのは、如何にも不謹慎であるように感じられた。今、3人のチルドレンは好き嫌いという感情を越えて結びついているのだ。それは大人達の目から見ても明白なことだった。だったらそれで良いではないか。ミサトは自分の中でそう結論づけた。

そしてミサトはアスカの意思を尊重し、自分との同居を取りやめ、本部内に宿泊することの許可を与えた。その方がアスカに取って、少しでも有効に使える時間を増やすことが出来るのだ。

アスカはまたリツコに頼んで、MAGIにアクセス出来る端末と、研究室を一室用意して貰った。そして、将来リツコに自分の研究を手伝って貰う約束も取り付けた。そしてアスカの計画は、リツコの口から司令であるゲンドウの耳にも届くことになった。その話を聞いたとき、ゲンドウは直々にアスカの元を訪れ、今までの非礼を詫びるとともに、研究への協力を申し入れたのだった。

その結果、アスカは時間と資金、MAGIを手に入れ毎日端末に向かい合うこととなった。

その目的に至る道はとてつもなく遠い、それは彼女自身承知していることだった。しかし、少しでも可能性が有る限り、その道を放棄することは出来ない。アスカは不退転の決意で研究に没頭していた。

そんなアスカが、いつものようにシンクロテストを終え、端末に向かい合っているとき、アスカの部屋のドアを叩くものがあった。時間からしてミサトではない。アスカは訪問者の顔を確認して、少なからず驚いた。そこにはフィフスチルドレン、渚カヲルが居たのだ。

「少し話がしたい」

そのカヲルの申し出に、アスカは10分後に食堂で落ち合うことを約束した。その申し出自体断ることも出来たのだが、『君にとっても悪い話じゃない』と言うカヲルの言葉にアスカが興味をそそられたのだ。この正体不明の少年が、自分に何の用なのかと。ただ、如何に監視の目が届いているとはいえ、狭い部屋に2人で居るほど相手を信用できるわけではない。そのためアスカは、人の目がある食堂を選んだ。
 
 


***





アスカが食堂に着いたときには、カヲルはすでに自分のコーヒーをもって席に座っていた。

「君は何を飲むんだい」

そう問いかけるカヲルを無視し、アスカは自分でオレンジジュースを取りに行った。

「信用されていない...まあ当たり前かな」

その後ろ姿を見つめながら、カヲルはそう呟いた。何よりここでの自分は『得体の知れない部外者』なのだ。

「それで話しってのは、なに?
 つまらない話だったらただじゃおかないわよ」

じろりと自分をにらむアスカに、カヲルは少し苦笑を浮かべた。

「全く身も蓋もない言い方だね。
 そうだね、僕がここに来た目的を知りたいとは思わないかい」
「別に、私には関係ないわ。
 あんたが喋りたいと言うんなら止めはしないけどね」
「本当に身も蓋もないことを言う人だね。
 上の人達はかなり気にしているのにね。
 知りたいとは思わないのかい」

本当に興味なさげにジュースをすするアスカに、はっきりと苦笑いを浮かべ、カヲルはそう言った。

「そんなことあたしの知った事じゃないわよ。
 ミサトや司令が気にすればいいことでしょ」
「確かにそれはそうだね。
 じゃあ僕が君に会うためにここに来たと言ったらどうする」
「そんなことはあんたの勝手、あたしの知った事じゃないわ。
 確かにあんたは綺麗な顔をしているけど、それだけ。
 あたしには興味はないわ」
「君が碇シンジ君を愛しているからかい」

シンジの名前が出たとき、初めてアスカの体がぴくりと震えた。その様子をカヲルは満足そうに見ていた。

「...違うわよ」
「隠すことはないよ。
 君がパイロットの仕事よりも優先してやっていること。
 それはシンジ君の為の事なのだろう」

さすがにアスカは驚きを隠すことは出来なかった。アスカがシンジのために研究をしているのを知っているのは、ほんの一握りの人間だけなのだ。それを目の前の男は知っている。これ以上自分はこの男と話していてはいけないのではないか。アスカの勘がうるさく警鐘を鳴らしていた。

「そんなに驚くことはないよ。
 君のシンジ君への気持ちを考えればごく自然なことだからね。
 君はシンジ君を助けたいと思っている。
 でも、そのために考えた方法には技術的裏付けが無い。
 違うのかい」
「...あんた何者なの...」
「僕は渚カヲル、君達と同じ仕組まれた子供さ」
「そんなことを聞いてるんじゃないわ。
 どうしてあんたがそんなことを知っているのよ」

顔を紅潮させているアスカを気にすることもなく、カヲルは涼やかな声でアスカの問いをはぐらかせた。

「...不思議だねぇ」
「...っ、いい加減にしないと怒るわよ」
「おや、今の君がまるで怒っていないように聞こえるね」

アスカは怒りに、持っているジュースをカヲルに引っかけようかとグラスを握った。しかし、寸前でそれを思いとどまった。

「なかなか辛抱強いようだね。
 コップの水を掛けられるのかと思ったよ」
「後から掃除する人が大変だからよ。
 それにのどが渇いていたし」

そう言って手に持ったコップからアスカはぐいっとジュースを飲み干した。その間もカヲルは笑みを顔に張り付かせたままアスカの顔を見つめていた。

「おもしろい人だね、君は。
 好意に値するよ」
「あんたに好意を持たれても嬉しくないわよ」
「全く身も蓋もない人だね君は」
「...悪かったわね。
 いい加減に用件を言いなさいよ。
 こんな無駄話をするために私の所に来た訳じゃないでしょ」
「実はこのために来た...
 すまない、これは冗談だよ。
 そう殺気の籠もった目で見つめるのを止めてくれないかい。
 君とは仲良くしたいと思って居るんだよ」

いい加減腹の立ったアスカは、ちらりと時計を見た。ちょうどそろそろレイがシャワーを浴びに行く時間だ。いい加減この腹の立つ男の相手をする事を止め、シンジの所に行こうと考え出していた。

「おや、もうこんな時間かい。
 これ以上君をここに引き留めておくと恨まれそうだね。
 では種明かしをするとしよう。
 どうして君のしていることを知ったのか?
 それは僕が人に有らざるものだからだよ。
 それから僕が君に話しかけた理由。
 それは君自身に興味を持ったからだよ。
 そして僕がなにかの助けになると思ったからね。
 まず君に、一つのヒントをあげよう。
 MAGI、第壱拾壱使徒。
 意味が分からなかったら赤木博士に聞いてみると良い。
 彼女ならきっとこの謎の意味を理解してくれるよ」
「何なのよそれ、あんた私をからかって遊んでいるの!」
「そんなつもりは無いよ。
 まず確かめてみることだね。
 必ず君の役に立つと思うから。
 それよりもいいのかい、シンジ君の部屋に行く時間だろう」

カヲルに指摘されたことで、アスカはもう一度時計を見直した。確かにレイがシャワーを浴びに行っている時間なのだ。双方知っていることとは言え、やはり顔を合わせたくはない。アスカはカヲルを追求するのを止め、食堂を飛び出していった。

「綾波レイと言い、君と言い、全くリリンは好意に値するね。
 出来るなら君たちの姿をもう少し見ていたいものだよ」

アスカの去っていった後を見送り、カヲルは一人そう呟いた。そのときのカヲルには、いつも張り付いていた笑顔はなく。まるで綾波レイの様に、全く表情のない顔をしていた。
 
 


***





渚カヲルに会ったことでざわついていたアスカの心も、病室で静かに眠っているシンジの顔を見ることで落ち着きを取り戻していた。アスカはシンジのベッドの横に腰をかけると、静かに寝息を立てているシンジの顔を覗き込んだ。

遠く目には綺麗に見えたその顔も、間近で見ると沢山の傷が付いていた。そのすべてがシンジの苦しみを表していると考えると、アスカは不意に目頭が熱くなるのを感じていた。

「ばか...無理しちゃって」

その言葉はとても優しい響きを持っていた。ただ、その言葉を聞く者は、アスカの他には誰もいなかったのだが。

アスカは、そっと手を伸ばすと、シンジの顔に付いた傷を一つ一つ確かめるように優しく撫でていった。その行為にどんな思いが込められているのか。それはアスカ本人しか分からないことだった。アスカは人差し指に触れたシンジの唇が乾いていることに気づくと、ちらりと扉の方を振り返った。そしてそこに誰の人影も無いことを確認すると、眠っているシンジの顔に自分の顔を近づけていった。

「寝ている時だけだから...
 だから...許してねレイ」

そう言ってアスカは、静かに自分の唇をシンジの唇に重ねた。

「ばかは...私だったのよね」

しばらくして、アスカはシンジから唇を離すとそっと呟いた。失って初めて自分の求めていたものに気が付いた。そしてそのときにはすでに手遅れになっていた。何をやっていたのだろう、後悔などしても遅いことは分かっていた。

「レイに返さなくちゃ...」

アスカはそう言うと、シンジの病室を後にした。シンジの頬に真珠の輝きを一つ残して...
 
 

「アスカさん...」

その姿をレイが見つめていた事に、アスカは気づかなかった。
 
 


***




渚カヲルがアスカに話した内容は、ネルフの上層部には驚きを持って受け止められた。第壱拾壱使徒の存在自体、委員会には伏せられていたことだ。それを委員会から直に送られてきたチルドレンが知っている。その意味するところは明確である。彼の存在自体が委員会からの警告なのだ。ゲンドウ達は更に慎重に事を進めざるを得なくなっていた。

しかし、カヲルの情報は違った方面で捉えられてもいた。それに気づいたのは、やはりと言うべきか赤木リツコであった。彼女は、アスカの研究と第壱拾壱使徒との関連に気づくと、その意味をアスカにレクチャーした。それはアスカが直面していた技術的問題のブレークスルーとなる事実。この点に関してだけは、アスカはカヲルに感謝しないわけには行かなかった。

「で、このご招待となったわけかい」

カヲルは少し居心地が悪そうに、レストランの中を見渡した。そこでは客に紛れ、いくつかの目が彼らを見つめていた。

「ま、とりあえず感謝の気持ちよ」

こちら側ではクリーム色のワンピースを着たアスカが、少し頬を染めていた。

「本当はディナープラス二人っきりの時間と言うのが良かったんだけどねぇ」

当然のように、窓の外では燦々と太陽が輝いている。カヲルが言った時間までにはまだかなりの時を過ごす必要が有った。

「冗談っ!あたしにそこまでして貰おうなんて10年早いわよ」
「おや、10年待てばいいのかい」
「物のたとえよ。それぐらい知っているでしょう!」
「おやおや、日本語は難しいねぇ。
 まあ今日の所はここまでで我慢しますかねぇ」
「悪かったわね...」
「申し訳ないが、もう少し笑ってくれないかい。
 君にはそんな難しい顔は似合わないよ」

カヲルの物言いに、アスカははあっとため息を吐いた。どうもこの男を相手にしていると調子が狂うのだ。のれんに腕押しとは言わないが、あまりにも手応えがなさ過ぎる。自分が力んでいるのがばからしくなってくるのだ。

「...はあ、あんたって...
 まあいいわ。せっかくの料理だからおいしいうちに頂きましょう?」

そう言ってアスカは運ばれてきた冷菜に手を伸ばした。

「そう言えば、あんた...」
「カヲルって呼んでくれないかい。惣流さん」
「んじゃ私はアスカで良いわよ。
 で、カヲル...あんたは何者の訳?」

パイ生地の中の魚を平らげたアスカは、未だ目の前で魚と格闘しているカヲルにそう声を掛けた。

「くっ、えっ、いきなり核心をついてきたね。
 そう言うことには興味が無かったんじゃないのかい」
「あの時はね...
 でも今は興味が出てきたわ」
「そうなのかい。
 じゃあ、僕の正体に付いてはベッドの中でゆっくりと...」
「...やっぱりやめとくわ」
「お互いを知るには一番いい方法だと聞いて来たんだけどね」

カヲルは盛大にため息を吐いて見せた。そのわざとらしさにあきれながらも、アスカは席を立とうとはしなかった。

「一体どこのどいつよ、あんたにそんなとんちんかんな事を教えたのは」
「ルドルフ・ミュラーさ、知っているだろう」

そう言うカヲルの言葉に、アスカは少し考え込んだ。どこかで聞いた覚えのある名前。抜群の記憶力を誇る彼女のメモリーの奥底まで辿って、ようやくアスカは嫌悪感とともにその人物にたどり着いた。

「ああ、あの女ったらし...」
「いい人だと思うけど?」
「あの見境のない奴が“いい人”なもんですか」

けっ、と言うアスカの態度に、カヲルは苦笑を浮かべた。

「なかなか参考となることを聞けたんだけどね。
 たとえばベッドの中での女性の悦ばせ方とか...」
「ストップ...これ以上その話題を続けたら水浴びすることになるわよ」

剣呑なアスカの視線に、カヲルは再び苦笑を浮かべた。しかしそれでもめげないのはこの男がただ者ではない証拠だろう。

「そうかい、残念だねぇ。
 僕としては是非ともアスカに...
 オーケー...分かったよ。
 この話題からは離れることにしよう。
 氷水ではいささか水浴びには冷たすぎるようだからね」

さすがに、アスカがワインクーラーに手を掛けたことで、カヲルもその話題をうち切ることにした。これ以上怒らせでもしたら、せっかくの機会が水の泡となってしまう。

「そう言えば研究の方は順調なのかい?
 いくら取りかかりが見つかったとは言え、簡単な話じゃないだろう。
 それに君に残された時間は短いはずだ。
 論理的に言って、治療法の完成が間に合うとは思えないのだけどね」

一体この男は何処まで知っているのか?驚愕の目でアスカはカヲルを見つめた。

「もちろんそんなことに気が付かない君じゃない。
 君のことだからそっちの方にもちゃんと手を打って居るんだろう。
 たとえばLCLを用いた冷凍睡眠とか...」

カヲルの言葉に、アスカは思わず席を立ち上がった。このことは自分とリツコ以外には知らないはずのことである。それを目の前の男は、さも当たり前のことのように話している。何者なのか...それ以上にそんなことがあり得るのか?信じられない出来事を前にして、アスカの心は大きく揺れていた。

「だから言っただろう?
 僕は人外の者だってね!」

にこやかな顔をしていたカヲルだったが、急に顔をしかめると勢いよく席を立ち上がった。そして同じように席を立ち上がっていたアスカの右腕をさっと掴んだ。その行動に、アスカはびくりと反応し、ガードに配されていた者達の間に緊張が走った。

「な、何をするのよ...」

精一杯の虚勢を張ったところで、心の底に住み着いた恐怖は隠すことが出来ない。先ほどまでの会話で、アスカは心の底に渚カヲルに対する得体の知れない恐怖心が芽生えていた。

「せっかくのお誘いを申し訳ない。
 だが緊急事態が発生したんだ。
 すぐに本部に戻ろう」

本部という言葉で、アスカは少し落ち着きを取り戻すことが出来た。

「だ、だから何なのよ...」

それでも言葉が震えるのを止めることは出来なかった。しかし、アスカを本当に驚かせたのは次ぎにカヲルが言った言葉だった。

「使徒が来る...」

アスカは引きずられるようにして、カヲルに本部に連れられていった。

こうして穏やかに流れていた日常は、使徒の襲来を機に再び終末へと向けて刻を刻み始めた。
 
 
 
 
 

続く
 


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NAG02410@nifty.ne.jp


中昭のコメント(感想として・・・)

  かげろう 第九話。トータスさんから頂きました。


  >「私は負けるわけにはいかない...」
  >「シンジ...あんたを死なせはしない...」
  >彼女はそれを毎日のように繰り返すのだった。
  毎日のように…
  それしか頭にない状態ですね。

  >シンジの病室にベッドを持ち込み、レイはそこで生活をするようになっていた。
  >そしてシンジが眠りについたときは、日課の読書を辞め、じっとシンジの顔を見つめることが彼女の生活となっていた。
  うううけなげ

  >思ったほどの喪失感を抱いていない事に驚きを感じていた。
  >そして自分自身の中に生まれた目標がどれだけ大きいのかを思い知らされた。
  >「まあいっか」
  >彼女は、自分自身を縛り付けていたエヴァの呪縛から解き放たれようとしていた。
  シンジの病気も、アスカにとってはプラスになってるようですが…
  問題は目標が達成できなかった時の反動ですね。

  >彼は自分が全く初号機とシンクロしないことを気にしていないのよ。
  >それともチルドレンとしてではなく、ほかの目的を持ってネルフに送られてきたのではないのかと。
  カヲルくんの目的かぁ。
  そう言えば、今回は弐号機は乗っ取れそうもないですが…というかまだ出番が早いか


  >「ばかは...私だったのよね」
  >しばらくして、アスカはシンジから唇を離すとそっと呟いた。
  >失って初めて自分の求めていたものに気が付いた。
  >そしてそのときにはすでに手遅れになっていた。
  >何をやっていたのだろう、後悔などしても遅いことは分かっていた。
  …少し諦めモード?
  それとも
  >「レイに返さなくちゃ...」
  レイとシンジの関係かな…
  

  >「使徒が来る...」
  >アスカは引きずられるようにして、カヲルに本部に連れられていった。
  あ、なんか積極的なカヲル君ってのも新鮮。
 
  >こうして穏やかに流れていた日常は、使徒の襲来を機に再び終末へと向けて刻を刻み始めた。
  病苦の中でも精一杯保持していた日常。
  それを壊す使徒
  

  次回はどうなるんでしょうか





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