〜ル・フ・ラ・ン〜


第十四話  思惑
 
 
 

サンタクルズの丘陵地に移設されたネルフ北米支部では、あわただしくエヴァンゲリオン5号機の起動試験が行われようとしていた。スタッフの大半は北米支部の所属であったが、全体の指揮はネルフ本部から派遣された技術者が行っていた。赤木リツコ、伊吹マヤが損害を受けた7号機8号機の修理で手が放せないため、彼女たちの部下である中田アキヨシ三尉が試験全体の統括を行っていた。

起動試験はシンジが到着した翌日から始められ、10日目に突入しようとしていた。

「第10次起動試験開始」

そう宣言する中田の顔には焦りの表情が浮かんでいる。初日こそ61%と、調整不足の機体にしてはまずまずの数値を示した起動試験だったが、その後調整が進んでいるのに反して、そのシンクロ率が伸び悩んでいることにその原因があった。本部の試験では80%以上のシンクロ率を安定して叩き出すシンジを持ってして、ここではシンクロ率が60%を越えたところでその伸びが足踏みしているのだ。それどころか、そのデータ自体安定したものではなく、時には起動水準ぎりぎりまで急降下する事もあった。

その度に技術者達は、システム全体の再チェックに深夜の作業に駆り出されるのだった。

中田は目の前を走っていく光の帯を見ながらぼんやりと考えた。『何が原因だ』その瞬間にもオペレータ達からはシーケンスの進捗が報告される。『考え得る限り、すべての確認はした』中田の顔にも疲労の色が濃い。

『何か違和感があるんですよ』

中田はシンジが二日目の試験を終えたときに言った言葉を思い出した。

『他人の意思と言うか、雑音みたいなものというか、今まで感じたことのないものを感じるんです』

『まだまだ調整不足だからね』そうシンジには説明した。確かに機体自身再構築以降の調整は十分とは言えなかった。しかし今はそんなことはない。しかしシンジからは未だに違和感を感じるとの報告が上がって来る。コアの個体差による現象かとも最初は疑ったが、数値として示されるものはすべて正常値を示していた。それに中田はシンジが何気なく漏らした言葉が引っかかっていた。

『初日には違和感がなかったと思います』

北米支部のMAGIを調べたところで何も出てこない。中田は手詰まりを感じていた。『今この状態で使徒が襲ってきたら危ないかもしれない』その考えは日毎に中田の中で大きくなっていった。

「赤木博士に相談するか」

結局中田は堂々巡りした結果、その結論に達した。自分を信頼して派遣してくれた上司を裏切っている気もしないでもないが、何よりも一日でも早く5号機を実戦投入する事が重要だと彼は頭を切り換えた。

彼の目の前では乱高下するシンクロ率に、オペレーター達があわただしく走り回っていた。

そんな実験棟の中で、ダンチェッカーは一人冷静に試験結果を眺めていた。彼のディスプレーには中田を悩ませる原因が映し出されている。MAGIを包み込むタイタンのオペレーション。そこにはシンジの脳波パターンの3次元表示から、外部から与える擾乱要素が刻一刻と変更されるのが映し出されていた。

「しかし大したものだ」ダンチェッカーは示される脳波パターンを眺めながらそう呟いた。彼にとって、シンジが示した擾乱後の現象が収束過程していく過程は非常に興味深い対象だった。「これがチルドレンに要求される特質なのか」確かに目の前には特異な現象が示されている。しかしこれがチルドレンに要求される能力なのか、それともサードチルドレン特有の現象なのかそれを知るすべはなかった。「セカンドチルドレンのデータも見たいものだ」それが叶わないのは良く承知している。ならばとりあえず北米支部にいる候補生でも乗せてみようかとダンチェッカーは考えていた。

「君たちの邪魔をするつもりはないのだが、こっちも事情があるんでね。悪く思わないでくれ」

ダンチェッカーは、走り回っているオペレーター達に向かって小さく謝罪の言葉を述べた。
 
 

***
 
 

シンジは起動試験が終わって自分の部屋に戻ると、倒れ込むようにしてベッドに横たわった。肉体的な疲労があるわけではない、精神的に辛いのだ。シンジにとって、これまでエヴァで感じたことがないような負担が『心』にかかっていた。そのためシンジは、こうしてベッドに横たわることで頭を休めようとしていた。

ここ連日行われる起動試験は、じわりじわりとシンジの心に疲労を蓄積していった。

「辛いな」シンジはそう漏らした。ネルフのスタッフが一所懸命にやっているのは判っている。彼らはシンジが休んでいる間も働いている。それは判っているのだが、つい愚痴が口をついて出てしまう。

『こんな姿はアスカには見せられないな』とシンジは自分を送り出してくれた恋人の顔を思い出した。

「アスカ...」

シンジはその名前を口に出してみた。

「アスカ...」

その名前を口にすることで、シンジは少し気分が楽になったような気がした。そうすると現金なもので、考え方も前向きになってくる。

「…勉強でもするか」

シンジとて現役の高校生である。従って日本に帰れば試験もあるし、受験に頭を悩ませなくてはならない。大体1ヶ月も授業を抜ければ、ついていくのも苦しくなる。そう言ったわけでシンジは、起動試験が終わった後に高校の課程を自習する事になっていた。

『こうやってみると普通の高校生よね』

ケイコは、問題集相手に悲鳴を上げているシンジに向かってそう感想を述べた。エリート集団と言われるネルフなのだから、誰かがシンジの面倒を見れば良いはずである。しかしながら準備段階でそのことについてはすっぽりと皆の頭の中から抜け落ちていた。従ってシンジの今はシンジの身の回りを見ているケイコが何とか手助けをしていたが、彼女とて理系科目はさっぱりだった。そこの所は、もう一人の護衛である加持が面倒を見れば良かったのだが、彼はケイコのいる時間は外を飛び回っているため、結局シンジが独力でこなすしかない状態となっていた。

シンジは机に向かいながら「加持さんか...」と一人小さく呟いた。

アメリカに着いた夜、加持がふらりとシンジの前に現れたときには、さすがのシンジも驚いた。

「護衛って加持さんだったんですか」シンジにとっては驚き半分、喜び半分の顔で加持を迎えた。

「おいおい、そんな驚いた顔をするなよ。それとも夜も朝霞君の方が良かったのか。なんならアスカには秘密にしておくから今からでも代われるぞ」相変わらずと言えば相変わらずなのだが、加持はニヤニヤと笑いながらシンジの顔を見た。

「はあ、アスカに内緒にしても、ミサトさんには言うんでしょ。それならなおのこと悪いですよ」シンジも加持が冗談を言っていることぐらい判っていたので、動揺もせず加持へと切り返した。

加持の飄々とした態度が、シンジには緊張に固まっている気持ちをほぐしてくれるようで心地よかった。

「ところで加持さん」シンジはさっきまでとは声のトーンを変え、気にかかっていることを加持に尋ねた。「昼間は何をやっているんですか」

「おいおい、諜報関係者にそんなことを聞くもんじゃないぞ」加持は少しおどけた風にそう答えた。

「と言うことは、加持さんが動かなくてはいけないことがこちらにあるんですね」シンジは加持の態度を気にせずにそう尋ねなおした。「やっぱりボクに関わることなんですか」と。

「そうであるものもあるし、そうでないものもある。すべてはリンクしているがな」

「どういうことですか」説明してくれるんですよね、と言う顔でシンジは加持を見つめた。

「すべての人間が、ネルフの味方をしているわけじゃないと言うことだ。
 信じられないだろうが、使徒の側にたっている者達もいる。
 使徒と言う名前が悪かったのかもしれない。
 神の使いと戦うことに対する反発があるのも確かだ」

加持はたばこを取り出すと、シンジに向かって『吸ってもいいかい』と聞いた。シンジが黙って『NO SMOKING』のマークを指さしたため、加持は残念そうにたばこをケースの中へと戻した。

「それとは別の動きがある。
 シンジ君も歓迎会で会っただろうが、あそこに来ていたメンバーにはかなりの軍事関係者がいるんだ」

シンジは自己紹介の時、ケンスケから聞かされた名前を何度か耳にしたことを思い出した。

「彼らにとってはエヴァンゲリオンは邪魔な存在なんだ」

加持はシンジが『判らない』という顔をしたので、そのまま説明を続けた。

「エヴァは立派な武器なんだよ。
 まあエヴァが有るからと言って、今のパワーバランスが大きく変わってしまうわけではない。
 何しろエヴァというのは金食い虫だからな。
 こんなものを維持できるのはよほどの大国ぐらいだろう。
 だがな、こんなものがあると、彼らへ回る金が減ることも確かなんだ。
 それに今はUNにあることで紛争に対する抑止力にもなっている。
 何かと彼らに取って都合の悪い存在と言うわけだ。
 まあ一番の問題は、彼らにその技術がないと言うことだけどね」

「それから」と加持は言葉を続けた。

「シンジ君もネルフが所有しているエヴァは4機だと聞いただろう。
 ならば残りの5機はどこにある。
 世界中が混乱していた2年前ならいざ知らず、未だに見つかっていないとはおかしいとは思わないかい」

「つまり、どこかの誰かが隠し持っていると」加持の問いかけに答え、シンジはそう言った。

「そう考えるのが自然だろう。となると問題が一つ」そう言って加持はシンジを見つめた。シンジには『分かるかい』と加持が聞いている気がした。

「誰が、どこに隠しているか。ですか」シンジは加持の視線を受け、そう答えた。

「確かにそれはそれで重要なことだ。だが俺はそのことにはあまり心配していない」

『なぜだか分かるかい』加持はそう言う表情でシンジを見た。そして「エヴァの運用には非常に高度なノウハウが要るんだよ」とシンジに説明した。加持のその言葉を聞いてシンジもその事実にたどり着いた。

「そう、彼らはどうやってエヴァを動かすつもりだろうってね」

エヴァが簡単に動かないことは、これまでの実験で証明されている。現在選出されているチルドレンは4人、そしてその候補生が数人。今エヴァを動かす可能性を持っているのは世界でこれだけである。新たな適格者を捜すと言っても、そのノウハウ自体はネルフの中でも最高機密に属している。従って、エヴァを隠し持つことが出来ても、チルドレンを捜し出すことはそれに輪をかけて困難である。仮に見つかったとしても、シンジとアスカと言う壁がある。動いただけでは役には立たないのである。

「ダミープラグと言うことはないですか」シンジは忘れたい記憶の中の出来事を思い起こした。性能の差があるとは言え、ダミープラグで動いていた量産機は弐号機を排除した。ならば今度もそんなことがあるのではないかと。

「可能性としては0ではない。ただ0ではないと言うだけで現実的なものじゃない」加持はシンジを見つめた。「ダミープラグの元となるものが必要だが、最早そのようなものは世界に存在しない。その理由はシンジ君が良く知っているはずだ」

シンジはダミープラグの元とされた二人のことを思い出さした。

綾波レイ
渚カヲル

シンジにとって、ある意味アスカよりも近しい存在。シンジは彼らの導きによって存在の世界へと復帰した。彼らの存在はあの時消え去ったはずだった。

「新たな人柱と言うことはないんですか」可能性の一つとしてシンジはそう言った。

「それはチルドレンを選出するのより困難だよ」

加持はそう答えた。

「敢えて話を逸らしていたが、ここに二つの可能性がある。
 一つは選出するのが難しいのなら、今いるチルドレンを連れていけばいい。
 そしてもう一つが、チルドレン全体のレベルを落とすこと。
 つまり、邪魔になる二人のチルドレンを消せば良い」

加持はシンジの瞳をじっと見つめた。

「シンジ君とアスカ。この二人を排除すればスタートラインが同じになるんだ」
 
 

***
 
 

シンジは机に向かいながら加持に言われたことを思い出していた。これまで自分は使徒を倒すこと、いや、身近な人たちを守ることを考えていた。確かに加持に言われたとおり、世界は微妙なバランスの上に立っている。エヴァンゲリオンの存在自体前の時に比べて世界で知られている。その中で飛び抜けた力を持つパイロット二人。確かにこの二人を止める方法は今の世界にはない。

シンジは椅子の上で大きく伸びをした。確かに自分の周りの世界は思いも寄らない動き方をしている。ある意味使徒の存在より不可思議な動き方をする。加持は「そのために俺みたいなのが動いているんだ」と言ってシンジを力づけた。「人相手なら俺達がシンジ君達を守る」と。

『どうすればいいんだろう』シンジは自問した。自分もアスカもエヴァのパイロットである。もはやその事実は消す事ができない事も分かっている。そのことに関して逃げ道はないのだ。『ならばどうする』シンジの考えは堂々巡りをした。そして一つの結論に辿り着いた。

『今出来る事をする』

結局、何の解決にもなっていない事は判っている。しかし、見えない影に脅えているだけでは進歩がないのだから。それに加持にしてもミサトにしても、ムサシの父親にしても信頼にたる相手である事は良く知っている。ならば彼らの力を借りて解決していけばいいのだと。シンジはそう頭を切り替えて再び参考書との格闘を始めたのだった。
 
 

***
 
 

葛城ミサトは、重要な用件を伝えるため、惣流アスカ・ラングレーの病室を訪れていた。ミサトはドアをノックする前に自分の決意を確認した。『本当に自分はこの少女のための盾になる覚悟はあるのか』と。場合によっては犯罪行為に荷担することになる。それでも自分はそれをやる覚悟はあるのか。

すでに加持にはこのことは話してある。リツコも巻き込んでいる。マヤも青葉も日向もそして冬月まで巻き込んでいる。ある意味もはや後戻りが出来ないところまで来ている。それは分かっている。しかしそれでも心の中で『本当に良いのか』そう自問している自分がいることも確かだ。

『何を迷っているの。あの二人を守るって決めたでしょう』ミサトは頭を軽く振るとアスカの病室のドアをノックした。

「アスカ入るわよ」
 
 

***
 
 

アスカは病室の窓から差し込む柔らかな日差しに誘われるようにまどろみの中に居た。その手には妖精のような容姿には不似合いな厳つい本が握られていた。

『国際生物学会論文集』

そう日本語で書かれた文献は、アスカにとってちょうど良い睡眠薬となったようだ。その平和な一時は、ミサトの訪問によって中断された。

「...どうぞ」

まだぼんやりとした意識の中で、アスカはミサトに返事をした。頭の中では『退院後のことかしら』とぼんやりと考えながら...しかしその予測に反してミサトに告げられた内容にアスカは驚いた。

制服・制帽を着用し、ミサトはアスカの前に直立した。そして事務的に一通の封筒を取り出すと、その中身をアスカに告げた。

「セカンドチルドレン、惣流アスカ・ラングレー。
 右のもの、ドイツ支部消滅の件にて国連本部で査問委員会を行う。
 日時は1ヶ月後、サードチルドレンの帰日を待って行うものとする」

ミサトはここまで告げると、視線を和らげ、呆然としているアスカに向かって告げた。

「ここまでがネルフ作戦本部長としての仕事。ここからがかつての保護者としての仕事よ」ミサトはそう言うと、手にしたスイッチのボタンを押した。

「これでこれからの会話は記録に残らないわ。
 盗聴されることもない。全部リツコがチェックしていてくれるから」

ミサトはそう言うと、まだ呆然としているアスカの肩にそっと手を置いた。

「辛いかもしれないけど、話してくれる...何もかも。
 約束するわ...あなたを絶対に守ってみせるって」

アスカは力無く頷くと、ぽつりぽつりと言葉を紡ぎだした。心を絞り出すように...

「ちょうど使徒がドイツ支部を襲った日。アタシは支部長に呼び出されたの...」

ミサトはアスカが話している間、じっと黙ってその話を聞いていた。そしてアスカの話が終わると、その体を強く抱きしめた。

「ごめんなさい」ミサトはそう言ってアスカに謝った。「アタシたちが不甲斐ないばっかりに」と。

「そんなことない。アタシの用心が足りなかったの。アタシがもう少し気をつけていれば…」アスカはミサトの胸に顔を埋めたままそう言った。ミサトは胸にしみこむ熱いものを感じていた。

「大丈夫よアスカ。本部はみんなアスカの味方よ」

ミサトはそう言ってアスカの頭を撫でた。

「この情報がどこかに漏れていないか、リツコとマヤ、日向君が全力で各支部、UN本部に忍び込んでいるわ。
 だから心配しないで、決してあなたを悪いようにはしないわ」

ミサトの言葉にアスカははっと顔を上げた。

「だめよ。そんなことをしたらみんなの立場が危なくなるわ」

ミサトはそのアスカの言葉に微笑みで応えた。

「大丈夫。あなたが心配してくれたことで、私たち自身の戦う意味も見つかったから。
 それに私たちはあなたとしんちゃんには、返しきれない借りがあるの。
 だから私たちのことは気にしないで」

アスカはミサトの言葉に再びミサトの胸に顔を埋めた。人の気持ちが嬉しい、涙が止まらない。ミサトは黙ってアスカの涙をその胸で受け止め続けた。
 
 

***
 
 

しばらくたった後、ミサトはアスカのベッドを調整し、体を起こした状態にした。アスカの涙ももう止まっている。

「ごめん濡らしちゃったね」

アスカはミサトの胸元を見てそう詫びた。

「ん、これぐらい良いのよ。替えも持ってるし」

「それでさあ」とミサトはアスカの方へ向き直った。

「これからのことだけど。アスカ、退院してからどこに住む」

「どこにって...選べるの」

「そんなに選択肢はないけどね。
 ネルフの宿舎か、私たちの所。どこかのマンションを借り上げるぐらいね」

ミサトの言葉にアスカは少し考えた。どうしようと。そしてふと一人の少年の姿が頭に浮かんだ。シンジならどう勧めてくれるだろうかと。

「しんちゃん家に居候でもしたいの」

ミサトのその言葉にアスカは「違うわよ」と言って俯いた。ミサトは、アスカの頬が赤く染まっているのを見逃さなかった。

「確かにね、シンジ君のお父様から打診はされているけど。あんまり賛成は出来ないわね」

ミサトはそう言ってアスカの顔を覗き込んだ。

「一緒に住むのはもう少し先の楽しみにして、今は少し我慢しなさい」

ミサトはニタリと笑いながら、ポケットから一枚の紙を取り出した。

「と言うことで、こんな物件をお持ちしましたが...
 お嬢さん、いかがですか。
 なんとしんちゃんの家から徒歩5分。
 おっきなベッドも置けるおしゃれな1LDKよん」

アスカが受け取った紙には『しんちゃん家から徒歩5分。家具類はすべて備え付け。安全はもちろんネルフの保証付き。パーティの出来る広いリビングとキッチン付き。まさに新婚家庭にはぴったり』とミサトの手で書き込まれた物件の案内があった。アスカはその内容を見てクスリと笑った。

「まったく、初めからここに押し込むつもりだったんでしょう」

アスカのその言葉に、ミサトは「あら、不満そうね。んじゃ止めといて本部内のお部屋にする?」と言って、アスカの手から、その紙を取り上げようとした。

「誰もイヤとは言っていないでしょ。まったく意地悪なんだから」

アスカは『渡さないわよ』とばかりにその紙を懐に抱え込み、ミサトを睨み付けた。しばらくの間お互いにらみ合っていたが、それも長くは続かず、アスカもミサトも示し合わせたように吹き出してしまった。

「まったく、ミサトは変わってないわね」アスカは目尻から少し涙を流しながらそう言った。

「そう、まあ私は元々大人だったからね。
 でもそう言うアスカは変わったわね」

「・・・アタシ変わった?」その言葉にアスカはミサトの顔を見た。

「そう、素直になったわ」

『優しい顔をしている』アスカはミサトの顔を見てそう思った。

「アタシは昔から素直よ」

「はいはい、そう言うことにしておきましょう」

「しておかなくてもそうなの」

不満そうに口をとがらせたアスカに、再び二人は吹き出してしまった。

「あなたのいい日に退院して良いのよ」もう許可は貰ってあるからとミサトはアスカに告げた。「部屋の方の片づけも、洞木さん達がしてくれたわ」と。

「ヒカリが...」

その名前にアスカの顔がほころんだ。

「そう鈴原君達や大和くん達も手伝ってくれたわ。
 お礼しないとね」

「・・・うん」

「土曜日にはパーティをするから」

「・・・うん」

「でもアスカはお酒はだめよ」

「うん...ええっ」

「だ〜めよっ。あなたはまだ万全じゃないんだから」

「で〜も〜」

ミサトはアスカの抗議を手で制した。

「しんちゃんが帰ってきたときには許可してあげるから。
 それまでは我慢しなさい。
 その時は一緒に騒ごうね。
 加持も、発令所のみんなも呼んでさ...ねっ」

そう言われてはアスカは認もめるしかなかった。何より自分の体のことを気遣ってくれていることを知っていたから。

「・・・うん」

ミサトは、素直に頷くアスカのことを本当に綺麗だと感心していた。
 
 
 

***
 
 
 

アスカはベッドから身を起こすと大きく伸びをした。身に纏っているのは瀟洒なネグリジェではなく、病院支給の至ってシンプルな綿のネグリジェ。その質素な衣装も少しも彼女の美しさを損なうことは無かった。

「う〜ん」

アスカはもう一度伸びをするとガウンを羽織り、置いてあった洗面用具を持って廊下へと出た。

アスカの入院する病棟はVIP専用の特別病棟である。そのため今は他の入院患者もなく、アスカ一人がこのフロアを貸し切っている状態になっている。そのため廊下を歩いていても、今では知った顔になった看護婦以外特に顔を合わすことも無かった。

「惣流さんおめでとう。良かったわね」途中で出会った見知った看護婦はそう言ってアスカに声を掛けてくれた。何気ない一言、でも今のアスカにはそれすらとても嬉しく感じられた。

「ありがとうございます。ミチコさん」満面に笑みを浮かべると、アスカはそう言って挨拶を返した。そしてちょうど良いところで会ったとばかり、ミチコに近づくと小声で「シャワーって使えます」と聞いた。

「もちろんOKよ。じゃんじゃん使って良いわよ。彼が来るんだから磨いておかないとね」オホホホホ、と言った笑い声が似合いそうな顔でミチコはそう答えた。

「し、シンジは今アメリカにいますから」アスカは少し頬を染めてミチコに向かってそう答えた。その瞬間自分が口を滑らせたことに気が付いた。

「ふ〜ん、シンジ君って言うんだ」ニヤニヤするミチコの顔に、アスカは『ネルフの人って本当にこういう話題が好きねぇ』とあきれると共に、こんな話題を気楽に口に出来る今の自分がとても嬉しくなった。

「何か言いたいことがあるようだけど。からかっても無駄よ。じゃあシャワーも使うからね」

そう言って上機嫌で歩いていくアスカを見ていると、ミチコは自分も幸せを分けて貰った気分になった。そしてアスカの姿がシャワールームに消えると、きびすを返し「私もいい男を捜そっと」そう言ってナースセンターへと歩いていった。
 
 

***
 
 

アスカは洗面室に入ると、カチリとドアに鍵を掛け、周りを見回した。そして天井のコーナーに監視カメラを見つけると小さく『イ〜ッ』と舌を出すとタオルでそれを覆った。そしてシャワールームにもそれを見つけると同じようにタオルでそれを覆った。

「私の玉のお肌を見られるのはシンジだけなんだからっ」

アスカは、自分でカメラに向かって言った言葉に赤くなっていた。「ア、アタシって...」誰がいるわけでは無いのにアスカは狼狽えていた。そしてふと鏡に映ったじぶんの姿に気づき、アスカは鏡に映し出された自分の姿をじっくりと見つめた。そこには自分でも綺麗だと思う裸身があった。アスカは鏡に向かって髪をすくい上げるポーズをし、右手で自分の胸を持ち上げるポーズをしてみた。そのまま鏡へのアングルを少しずつ変えてみる。しばらくはそうして色々なポーズを試していたが、ふと自分のやっていることに気が付くと再び頬を赤く染め『ホントに何やってんだろ』そう言ってシャワールームに入っていった。

少し熱めの温度に設定されたお湯が気持ちいい。アスカは体を伝うお湯を見ながらそう感じていた。細胞の一つ一つがお湯によって活性化されていくような気がする。そしてもう一つ心の中から沸き上がってくる感情...それがアスカの体を熱くした。

「帰ってきたんだ」

アスカは自分でも気が付かないうちに、微笑みを浮かべていた。

「この街に帰ってきたんだ」

シャワーを握る手に力がこもる。

「みんなの所へ帰ってきたんだ」

アスカはそう言って自分の体を抱きしめた...
 
 

***
 
 

アスカがミサトに連れられて来たマンションは、落ち着いた住宅街の一角にある、こじんまりとしたマンションだった。ベージュ色の落ち着いた外壁を持つ5階建てのその建物は、明らかに新築のものだった。

「へぇ〜、なかなか良いじゃない」

アスカがその建物を見た第一印象は良好だった。

「それで何号室になるの」

早く部屋に行きたい、そんなアスカの態度にミサトは軽く微笑んだ。

「はいはい、ちょっと待ってね。鍵ならここにあるんだから」ミサトはそう言うと、ポケットからカードキーをを取り出すとエントランスのスロットに差し込んだ。パスコードがピッピッピと軽やかな音を立てて入力されるとガラッと音を立ててエントランスの扉が開く。そのままミサトはアスカに先立って中に入ると、一機設置されているエレベータの前に立った。

「アスカの部屋は3階の302号室だから」ミサトは行き先の3という数字を押しながら、アスカのそう告げた。「本当は角部屋の方が採光が良くて良いんだけど、保安上の問題でね。そこだけは勘弁してね」ミサトはそう言ってアスカに部屋のカードキーを手渡した。

「分かってるわ」アスカはそう言うと、ミサトからカードキーを受け取った。「ところでパスコードの初期値はなんになっているの」

「うん、パスコードね。そのカードは20010606にしてあるわ。んでこっちの2枚はnullだからアスカの好きなのを入れておいてね」アスカはその瞬間ミサトの顔に浮かんだ表情を見逃さなかった。

「何ニタニタしてんのよ。気持ち悪い。この数字に何か意味があるの」

「べっつに〜。何でそう思うの」今度はミサトはニタニタと笑った顔を隠そうともしないでそう言った。

「ミサトの『ハイこの数字は意味ありです』なんて顔を見てたら、誰だってそう思うわよ」

「じゃあ宿題にしておくわ。できなかったら多分アスカの大事な人が悲しむわよ」

アスカはミサトのその言葉にようやくその数字の心当たりが見つかった。

「それってさあ」アスカは少し驚いたように蒼い目を見開いた。

「そう、しんちゃんの誕生日よ。
 残念だけど今年はもう過ぎちゃったけどね。
 でもあなたたちには来年も、再来年もずっとあるわ」

「シンジの誕生日か...」ミサトはそう言って、シンジの分身の様にカードを抱きしめるアスカの姿を嬉しそうに見詰めた。

「しんちゃんもアスカの誕生日を知らないはずよ。だからもう一枚のカードのパスコードは決まったわね」そう言うミサトにアスカは小さく肯いた。その姿に「ほんとにアスカったら可愛くなっちゃって」と、今ではほとんど背の変わらないアスカの身体をミサトは抱きしめた。
 
 

***
 
 

『感傷に浸るのは一人の方がいいでしょう』その言葉を残し、ミサトは早々にアスカの部屋から退散していた。アスカは一人片づけの行き届いた部屋の中を見渡した。キッチンに置かれたこぎれいな二人用のテーブル。一通り揃った鍋や食器。センスのいいティーセット。リビングに目を転じてみると、薄いグリーンのカウチソファに低めの大理石をあしらったテーブル。それにオーディオと一体になったTV。生活していくには何不自由なく揃えられたそれは、お仕着せというよりアスカのことを思って揃えられた事が分かる物だった。

そのままアスカは寝室になっている部屋へ向かった。割と重厚な木の扉を開けると、薄いレースのカーテンからの光に照らされた広めのベッドとドレッサーが目に付いた。そして反対側に目を転じると、そこにはこじんまりとした書斎机が鎮座していた。

「アタシの部屋...」

「アタシの居所...」

もう一度アスカは部屋の中をぐるりと見渡した。そして、机に置かれた電話のメッセージのランプが点滅しているのに気がついた。『それでメモがどこにもないわけね』アスカはそう呟くと、電話の所に歩み寄り、メッセージ再生のボタンを押した。

そこからは良く見知った人たちの懐かしい声が流れてきた。

『ヒカリです。アスカ、退院おめでとう。
 とりあえず何でも2人分用意しておいたからね。
 足りないものがあったら自分で揃えるように。
 荷物持ちは自分で調達してね。
 鈴原は貸さないわよ。』

『鈴原や、わいはてつどおてもよかったんやけど。
 委員長がだめやゆうとるんで、そういうことや。
 なんや、委員長...ああそやったな。
 まあ退院おめでとさん。
 センセも帰ってきてくれたし、また夫婦喧嘩が見せてもらえるやろか』

『惣流、退院おめでとう。相田ケンスケです。
 まあ退院祝いというわけではないんだけど。
 部屋の中が殺風景だから不本意だけど風景写真を用意しました。
 そのうちシンジの写真に替えてやるから心して待つように』

『アスカさん退院おめでとうございます。マナです。
 机の引き出しに鹿児島時代のお兄ちゃんの写真を入れておきました。
 じっくりと眺めてやって下さい。
 それからお母さんからの伝言です。
 遠慮しないでご飯を食べに来てとのことです。
 伝えましたからね。
 一人じゃおいしくないですよ』

『アスカさん退院おめでとうございます。レイコです。
 兄は恥ずかしがって喋ろうとはしませんので私が代弁します。
 机の中のもう一枚のディスクは兄からです。
 私もマナも知らない写真が入っているそうです。
 兄は絶対に口を割らないと思いますので、今度どんな写真か教えて下さい』

再生が終わってもアスカは動けないでいた。自分のために集まってくれた友達。その暖かさが心に沁みた。そしてその時、電話のベルが鳴った...

「はい惣流です...」

そしてアスカは一番聞きたい人の声を聞いた。

「シンジ...」
 
 

to be continued...
 


トータスさんのメールアドレスはここ
NAG02410@nifty.ne.jp



中昭のコメント(感想として・・・)

  トータスさんのルフラン第14話、投稿して頂きました。

  >「はあ、アスカに内緒にしても、ミサトさんには言うんでしょ。それならなおのこと悪いですよ」
  加持ってそんなにお茶目さんだったかな。
  ・・・・・ミサトとつき合ってるんだからそのくらいやるか。
  それにしても本当にやったら、ミサトのからかいネタが増えますね。

  >「シンジ君とアスカ。この二人を排除すればスタートラインが同じになるんだ」
  どよぉん
  リアルな世界。でも使徒という脅威が薄れたら実際に起こるでしょうねぇ

  > おっきなベッドも置けるおしゃれな1LDKよん」
  おっきなベットがポイントですね。
  しっかし、何でも2人分用意しておいたのでは、すぐに一緒に住み始めろと言ってるような
  まぁ、結婚するまでは以前の同居の延長みたいなくらしになるかな

  自分の居場所を確保したアスカ。
  徐々に厳しさを増す大人達の暗闘。

  先行きが楽しみです。



  みなさんも、是非トータスさんに感想を書いて下さい。
  メールアドレスをお持ちでない方は、掲示板に書いて下さい。






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